
こんにちは。
千葉商科大学人間社会学部教授の荒川です。
世界ではいま、「GDPや所得だけでは、人の豊かさや幸福は測れない」という問題意識が広がっています。コロナ禍を経て、私たち一人ひとりが心身の健康や人生の幸福とは何かを改めて考えるようになりました。
「well(よい)」とは何か。「not well(よくない)」とは何か。答えはひとつではありません。だからこそウェルビーイングとは、問い続けるべきテーマでもあります。
今回は、それを考えるヒントになる3冊をご紹介します。
1.『問いとしてのウェルビーイング』齊藤紀子・荒川敏彦・権永詞・伊藤康編著(中央経済社2025年刊)

千葉商科大学・人間社会学部の教員が、それぞれの専門分野の観点から、ウェルビーイングについて、わかりやすく執筆しています。
タイトルに「問いとしての」とあるのは、どういう意味でしょう。ここには、あらかじめ理想的な答えを決めずに、常に問い続けようという意味が込められています。ウェルビーイングにおいて、何を“well(よい状態)“と考えるかは、状況によって変わるものだからです。
さらに副題の「人・社会・自然のよい状態を考える」は、「私」という観点に閉じこもらず、より広い視野に立って考察する姿勢を示しています。このとき、ウェルビーイングを「よい状態」と言い換えていることにも、注目してください。ウェルビーイングという言葉にはさまざまな解釈や意味合いがあります。ひと言では定義しにくい言葉なのですが、日本語で「よい状態」と言い換えてみると意味を考えやすくなり、カタカナ語ではやり過ごしていた「よい」とは何だろうという問いがわいてくるでしょう。
本書はその問いに対して、健康、環境破壊、経済活動、サステナブルな社会づくり、人々の参加といった観点から、真の豊かさとは何かを多角的に掘り下げていきます。
たとえば第2章「幸福追求の陥穽」では、近年までヨーロッパでは「感情には簡単に身を投げ出すべきではない」という伝統があったことが言及されています。病気や貧困などのリスクには、社会全体で取り組まないと解決できないものが少なくないため、人々が自分の感情にばかり身を任せてしまうと、社会全体にとって危険な場合があると以前は考えられていたのです。
いまは個人の幸福がより強調され、自己実現の延長線上にこそ幸福があるという考え方が支配的かもしれません。どうしてそう変わったのでしょう。しかも、個人の幸福をさまたげる社会的要因がなくなったわけではありません。第2章では、幸福感という観点から主観的なウェルビーイングに注目が集まっている背景と、社会や環境のウェルビーイングを考える重要性が、明快に示されています。
本書では他にも、サステナブルな都市の創造や有機農業、エシカル・ツーリズムなど、現場に即した事例も豊富に紹介されています。大学の特別講義をオムニバス形式で聴講しているかのような学問的な醍醐味を感じながら、「私たち」の「よい状態」を考えるヒントを得られるだろうと思います。
2.『大人のための社会科』井出英策・宇野重規・坂井豊貴・松沢裕作著(有斐閣2017年刊)

2冊目は、考えつづけるために必要な対話の土台づくりに関わります。現代では、知的権威に批判的、あるいは懐疑的な「反知性主義」が広がると同時に、自分の立場に固執し、相手を否定して話し合いから遠ざかる傾向も見られます。そうしたなか、「日本社会の将来を語り合うための共通の理解、土台のようなもの」が必要だという意図の下で、第一線で活躍する4人の研究者たちが集って編まれた書です。
著者はいずれも著名な研究者ですが、難しい言葉を使わず書いてくれています。一人で読むだけでなく、ぜひ誰かと一緒に読み合って下さい。かならず社会やウェルビーイングについて考え論じ合うよいきっかけになると思います。
本書を構成する12の章は、社会を根底から考え直すための12のキーワードで構成されています。一つひとつのテーマをたどることが、そのままウェルビーイングを考えることにもつながっていくのです。それぞれにサブタイトルがついているので、各章の議論のポイントを押さえて読むと、理解しやすいでしょう。
第1章は「GDP」。副題は「『社会のよさ』とは何だろうか」です。ボールが当たって割れた窓ガラスを修理するとGDPは上がりますが、逆に、ものを大切に長く使ってもGDPの上昇にはつながりません。今の世界で当たり前に使われているGDPという経済指標の問題が指摘され、社会のウェルビーイングについて考えさせてくれます。そして第2章以下、勤労、時代、多数決、運動(社会的な運動)、私、公正、信頼、ニーズ、歴史認識、公、希望と続きます。それらはいたってシンプルな言葉ですが、いざ読み始めてみると、いずれもきわめて本質的な問いが投げかけられていることに気づくでしょう。
最後の第12章は、「希望」がテーマです。私たちはいま、未来を見通すことがきわめて困難な時代を生きています。かつてないほど変化が激しく、10年後、20年後の社会がどうなっているのか、予測することがとても難しい時代です。
だからこそ著者は、「いま私たちに必要なのは、安易に未来を語ることではありません」と言います。そのうえで、“未来"につきものの不確実性は、不安要素であると同時に、私たちに可能性を感じさせてくれるものでもあると続けます。
社会の過去と現在を読み解く力を身につけ、過去と現在の問題に向き合うことで、私たちははじめて未来へと進む力を得ることができる。そこに希望が見えるのではないか。本書はそういう希望のメッセージで結ばれます。本書『大人のための社会科』を通して、社会と自分にとって何が「よい状態」なのかを、自分自身に問いかけてみてください。社会のことなど複雑でわからない、考えるのも面倒くさいという人にこそ、ページを開いてもらいたい一冊です。
3.『モモ』ミヒャエル・エンデ著 大島かおり訳(岩波少年文庫2005年刊)

最後は世界で愛読されている児童書です。むかし読んだという方も少なくないのではないでしょうか。一見、子ども向けのファンタジーですが、実は「私たちにとって時間とは何か」、「豊かに生きるとはどういうことか」を問いかけてくる、哲学的な物語です。
人々の日常は、あるときどこからともなく表れた「灰色の男たち」によって一変します。彼らは「時間の節約」を巧みに人々にもちかけて、人生の豊かな時間を奪っていく「時間どろぼう」です。彼らの口車に乗って、時間を節約すればするほど、みんなの暮らしはやせ細り、人々の関係はギスギスしていきます。
大人が読むと、「自分も年々、忙しく、日がたつのが早くなっていくが、その割に人生が豊かになった気がしない」とか、「自分は意味のある働き方をしているのだろうか」とか、いろいろ考えさせられるのではないでしょうか。
ミヒャエル・エンデが「モモ」を発表したのは、1973年のことです。その3年後の1976年に、岩波書店から日本語訳がハードカバーで出版されていますが、日本はちょうど高度経済成長が終わり、「効率・生産性・経済成長」を最優先にしてきた社会のあり方を、見直し始めた時代でした。その意味で、『モモ』は当時からすでに、鋭い問題提起を行っていた作品だといえます。
2005年刊行の本書は、同じ翻訳者による新訳版ですが、興味深い修正が見られます。たとえばハードカバー版(旧訳版)では、ドイツ語の原文"Denn Zeit ist Leben."を、「なぜなら、時間とはすなわち生活だからです」と訳していましたが、新訳では「なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです」と変わっています。ドイツ語のLeben(レーベン)とは、英語のLifeのこと。それは「生活」でもあるし、「生命」でもあるし、「人生」と訳すこともできるのです。あなたならどう訳しますか?
『モモ』では、wachsen(ヴァクセン)という言葉も繰り返し出てきます。成長する、発達する、 熟すといった意味です。時間を司るマイスター・ホラは、「話すためには、まずおまえのなかでことばが熟さなくてはいけない」、「ほんとうにそうしたいなら、待つこともできないといけない」、「土のなかで眠って芽をだす日を待っている種のように、待つことだ」とモモに語るのです。ものごとが熟すには、そんなにも自分の時間が必要であり、時間どろぼうが奪っているのは、まさにその「熟すための時間」。つまりこれは、成熟の物語でもあるといえるでしょう。
『モモ』は、読み返すたびに新たな発見を与えてくれる本です。大人がハッとして身につまされたり、答えに窮するような難しい問いも、容赦なく散りばめられています。一つ例をあげましょう。「灰色の男たちが存在するのは、人間が彼らの発生をゆるす条件をつくりだしているからだ」と、マイスター・ホラは言います。果たしてその"条件"とは何でしょうか。ぜひ考えてみてください。そのとき、「よい状態」を社会や環境と関わらせて考えている前の2冊が、きっとあなたにヒントをくれるはずです。
ウェルビーイングを考えるということは、自分が生きる大地や環境なども含めたうえで、「私は何に価値を置いて生きているのだろう?」と、問い続けることでもあります。今回取り上げた3冊はいずれも、ウェルビーイングを「私だけの幸福」ではなく、「社会・時間・環境のなかで熟していく価値」として考えるためのヒントを与えてくれるでしょう。時間をかけてヴァクセン(成熟)させた思考は、きっと人生を豊かにする芽を生み出すはずです。
荒川敏彦(あらかわ・としひこ)
千葉商科大学人間社会学部教授。専門は社会学。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位取得。2025年より現職。著書に『「働く喜び」の喪失——ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み直す』(現代書館)、『問いとしてのウェルビーイング——人・社会・自然のよい状態を考える』(共編著・中央経済社)ほか。
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