
人間のすべての営みは、自然という土台の上で成立する
私たちが人間的な暮らしを送るためには、さまざまな条件が必要です。きれいな空気、きれいな水、それに植物が育つ健康な土壌などが不可欠ですし、気温、日照、降水量といった気象条件も重要な要素です。
人も生き物である以上、生命を支える最も基本的な土台は自然環境であり、自然環境が良好な状態(ウェルビーイング)でなければ、私たちも健やかに生きていくことはできません。人間のウェルビーイングは、自然自体のウェルビーイングと密接につながっているのです。
【図表1】は、地球システムと社会の持続可能性を統合的に研究している国際的な研究機関、ストックホルム・レジリエンスセンターの「ウェディングケーキモデル(複数の層が重なるのでこう呼ばれています)」を簡略化したもので、持続可能な社会を階層構造で表しています。

【図表1】ウェディングケーキモデルを簡略化した概念図
Stockholm Resilience Center* (2016)を参考に伊藤康千葉商科大学人間社会学部教授が作成
*Stockholm Resilience Centre (SRC)
人間社会と地球環境がどうすれば「壊れずに持ちこたえ、立ち直れるか(=レジリエンス)」を探求する、世界トップクラスのサステナビリティ科学センターであり、国際的な研究機関。
三角形の一番下、すべてを支える土台が「生物圏=環境」です。「生物圏(Biosphere)」とは、生命が地球上で存在しうるすべての領域と、そこに生きるすべての生命体の総称です。「領域」には陸地、海洋・河川・湖沼、大気の下層部、地中の浅い層などが含まれ、そこに生きる「生命体」には、動植物から菌類や微生物まで、あらゆる生命が含まれます。もちろん人間も例外ではありません。つまり「生物圏」とは、生態系のネットワーク全体であり、地球上の生命活動が織りなす巨大なシステムそのものなのです。
真ん中の層は「社会圏」で、健康、教育、飢餓や貧困対策など、人間が人間らしく生きるための基本的な条件がここに入ります。そして一番上は「経済圏」。生産・消費・金融など、人間が価値をやりとりする活動領域です。「社会圏」も「経済圏」も、しっかりとした「生物圏=環境」の上にあってこそ、安定して成り立つことをこの図は示しています。
自然環境の多面的な「価値」に注目
続いて自然環境がもつ"価値" の面から、「自然環境はなぜ人間にとって大切なのか」を考えてみましょう。自然環境がもつ価値は、その性質によっていくつかの階層に分類することができます【図表2】。

【図表2】環境価値の分類例
栗山浩一『環境の価値と評価手法』(北海道大学出版会1998:14)を参考に伊藤康千葉商科大学人間社会学部教授が作成
例えば森林という自然環境は木材を、海は魚介類や塩を、私たち人間に提供してくれます。こうした「消費可能な生産物の供給源」としての機能に由来する自然環境の価値を、「直接的利用価値」と呼びます。
もちろん森林の価値はそれだけではありません。深く根を張った木々が土砂崩れを防いだり、降った雨を保水し、ろ過して、きれいな湧水をもたらしたり、川を介して豊かな栄養を海に届けたりする重要な機能も果たしています。人が間接的に享受するこうした恩恵に由来する価値が、森林の「間接的利用価値」です。
同じ森林でも、人が滅多に分け入ることがない原生林には、どんな価値があるでしょうか。アマゾンの奥地などは、将来、新薬の原料となるかもしれない、未知の植物や微生物の宝庫だと言われています。今はまったく手つかずでも、いずれそうした機能を利用する日がくるかもしれない。だから将来のために大切に保全しよう。このように、将来の"利用可能性"に依拠するのが、「オプション価値」と呼ばれる価値です。
以上はいずれも、何らかの形で自然環境を利用する「利用価値」というカテゴリーですが、これとは別に、自然環境を利用しないけれども価値を認める、「非利用価値」という'価値'もあります。自然環境の存在自体に価値を見出す「存在価値」や、その自然環境を次の世代に引き継ぎたいと思う「遺贈価値」がそれです。
ただ、このような分け方は一つの目安に過ぎず、実際の自然環境はいくつもの価値を同時に秘めています。アマゾンの原生林は「オプション価値」があるだけでなく、大量の炭素を蓄え温暖化を抑制するといった機能は、人類にとって計り知れない「間接的利用価値」ですし、そこにあるだけでよいという「存在価値」や、後世に残すべき「遺贈価値」も併せもっています。自然の価値は、けっして一面的ではないのです。
自然のウェルビーイングが、人間のウェルビーイングを向上させるとすれば、これまで見てきたような環境価値のどれかが、あるいは複数が寄与しています。反対に、環境価値の喪失は環境問題となり、私たちのウェルビーイングを低下させることになります。自然環境を守るのはよいことだと、多くの人は漠然と感じていますが、自然がもつ多様な機能や価値を考えてみると、環境保全の意味が一層はっきりしてくるのではないでしょうか。
環境対策は、国や企業の「競争力」にもなりえる
SDGsによって、「持続可能な発展」という概念が、重要な原則として認識されるようになったことは、おおいに意味があります。現代の日本は以前と比べて環境意識が高くなり、企業も環境負荷に配慮するようになっていますが、必ずしも十分とは言えません。それは依然として環境保全が経済に悪影響を与えると思われることが多いからです。しかし、過去の産業界の動きに環境と経済の両立のヒントを見ることができます。その一つが、今から半世紀ほど前に行われた、自動車の排ガス規制でした。

アメリカが、数年以内に自動車の排気ガスを大幅に減らすよう義務づけた「マスキー法」を成立させたのは、1970年のことです。日本もこれに追随するかたちで、排ガス規制の厳格化をめざしました。
日米の主だった自動車メーカーが、「実現不可能だ」と猛烈に反発するなか、日本のホンダやマツダの反応は、少し違っていました。「排ガス規制を最初にクリアすれば、強力な競争力になる」と考えたのです。本田宗一郎さんなどは、「千載一遇のチャンスだ」と檄を飛ばし、全社をあげて技術開発に邁進したと伝えられています。もちろん、一部企業がそのような行動をとった背景には、大気汚染に苦しみ規制強化を求める市民の声がありました。
そして1972年、ホンダは「CVCCエンジン」を発表し、マスキー法をクリアできることを、世界で初めて証明してみせたのです。マツダもこれに続き、早い時期に基準を達成しています。
これを機に、紆余曲折はありますが、日本の他の自動車会社も一斉に排ガス規制に本腰を入れて取り組み、排ガス浄化だけでなく燃費も改善することにも成功し、のちに貿易摩擦を引き起こすほど、日本車がアメリカ市場を席巻することになりました。企業が技術開発競争を通じて自然環境のウェルビーイング劣化を抑制させた、興味深い事例といえるでしょう。
人と自然のウェルビーイングが衝突するとき
自然環境の価値を考えるうえで忘れてならないのは、すべての価値は、人間が認識してこそのものだということです。自然が美しいのも、その美しい自然を守ろうとすることも、人間が自然を見てそう思うからです。しかし、人は自然環境の価値だけを考えて行動しているわけでないので、人のウェルビーイングと自然のウェルビーイングは対立することがあります。これまで繰り返されてきた「経済か環境か」という対立だけでなく、環境価値のどの側面を重視するかという点で対立することもあり得ます。
また、自然はある程度、人が制御することも必要です。一度人の手が入った自然は、人間が手をかけ続けないと維持できません。実際に日本でも、林業従事者の減少により、崩壊しつつある森林が少なくありません。

自然環境のウェルビーイングは繊細で、不確実なことも多いです。だからこそ、立場が異なる多くの専門家に、さまざまな角度から科学的に研究してもらい、みんなで考え続け、問い直し続けていくことが、これからますます必要になっていくでしょう。
「選べる」という豊かさ:ケイパビリティ・アプローチ
さて、自然がもつ機能や価値にはいろいろなものがありました。一方、それを評価する人間の受け止め方も人それぞれです。ウェルビーイングを達成するために必要な要素自体が、多様だからです。今回は最後に、ケイパビリティ・アプローチについても紹介しましょう。
ケイパビリティ・アプローチは、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン教授(※)が、人間の豊かさや生活状況を把握するために提唱した概念です。所得やGDPは大事な要素ですが、もちろんそれだけがウェルビーイングの要因ではありません。
かといって、その人の感じ方、主観に頼りすぎるのも問題です。長年抑圧されてきた人や、ずっと貧困に苦しんできた人は、ほんの少しの改善でも大幅に幸福感がアップします。客観的に見れば貧困状態のままなのに、主観がそれを許容してしまうことがあるのです。

アマルティア・センは、所得、教育、医療、食生活など、人が生きていく上で必要なものや重要なものを、「機能」と位置づけます。これは、いわゆる道具や機械の性能としての機能ではなく、「人が〜であること、〜ができること」という「状態」や、「営み」を指す言葉です。そして、その人が利用できる「機能」のバリエーション、選ぼうと思えば選べる「機能」の集合がケイパビリティです。
ケイパビリティは選択肢の束と読み解くこともできます。抗議や主張のために断食をする人は、食べる気になれば、いつでも食事をすることができます。しかし、あえて食べないことを選んだ結果、栄養失調に陥るかもしれません。一方、貧しくて食べたくても食べられない人、最初から食事という選択肢がない人も、同じように栄養失調になる可能性があります。
結果は同じでも、前者にはケイパビリティ(選択肢)があり、後者にはありません。自ら進んで断食した人と、嫌でも断食せざるを得なかった人とでは、結果に向き合ったときの気持ちの豊かさや、満足度がまったく違います。だからこそ、自由に選べる選択肢の有無が、ウェルビーイングの核心にあるとセン教授は言うのです。
ケイパビリティ・アプローチで、自然環境について考えてみましょう。家の近くに素敵な自然公園があれば、休日に森林浴やスポーツ、レクリエーションなどを楽しんで、リフレッシュするという選択肢が増えます。そして心身のリフレッシュメントという状態も、ケイパビリティを構成する機能のひとつとなります。地球規模の自然保護も重要ですが、身の回りのちょっとした自然環境も、私たちのウェルビーイングを向上させてくれる力をもっていることに、目を向けてみるのもよいのではないでしょうか。
日本では昨今、"ウェルビーイング"という言葉が流行のようですが、ウェルビーイングは人間の幸福や良好な状態とは何かを、問い続けるためのひとつの概念と捉える方が、より建設的な議論が行いやすいと思います。その際、主観的な幸福感に終始せず、所得、医療、教育、自然環境といった客観的な視点も忘れずに、真のウェルビーイングを追求していきたいものです。
※アマルティア・セン(Amartya Sen,1933年生~): インド出身の経済学者。厚生経済学・貧困研究・社会的選択理論の第一人者で、1998年にノーベル経済学賞を受賞。
この記事に関するSDGs(持続可能な開発目標)







関連リンク
