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コラム

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こんにちは。
千葉商科大学、専任講師の枡岡です。

生活の変化にもだいぶ慣れてきた今日この頃、たまにはゆっくりと、好きな小説でも読んでみませんか? 僕も久しぶりに村上春樹を読みました。実に20年ぶりです。生きる目的もわからず、ゲームに時間を費やしていた大学時代、たまたま読んだ小説に没頭し、片端から自分のなかに取り込んでいったのが、村上春樹との出会いでした。

村上作品は、あてどない若き日の僕を立ち止まらせ、考えるきっかけをくれました。そして僕は、物語という冒険の世界から戻るたびに、まるで違う場所に置いていかれた自分を発見するのです。それは未知の自分との出会いでした。

今回は、自分自身を見つめるのにきっと役立つ、おすすめの村上春樹4作品を取り上げます。あなたが昔読んだ作品も、この機会に読み直してみてはいかがでしょうか。

1.『一人称単数』(文藝春秋2020年刊)

一人称単数

村上春樹の新刊は、6年ぶりの短編小説集です。『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』、『品川猿の告白』、『謝肉祭(Carnaval)』など、雑誌『文學界』に発表された7作品と、本書のタイトルにもなっている書き下ろし1作品が収録されています。

全部で8つのストーリーは、生と死、恋愛、性、あるいは日常のなかの酒や音楽などをテーマに、あたかも混濁する意識に散らばる断片的な記憶のなかから、フラッシュバックするかのようにして、展開していきます。

読者は瞬間的に表れては消える記憶の断片を眺めながら、過去に置き忘れてきた気持ちはないかと、問いかけられるのです。いつのまにか失われていく大好きなものや、消えてしまうものの掛け替えのなさを、噛みしめるかもしれません。

8人の「一人称単数」の目を通した物語は、肩肘を張らない短編小説という形態を得て、シンプルに、具体的に、そして身近な形で語られていきます。ここで見られる文章の軽快さは、それ以前の年代の作品とは明らかに趣を異にしています。

ひとつひとつの物語が、それぞれ完結していて読みやすいのは、短編集ならではの魅力でしょう。村上春樹は初めてという人や、たくさんある村上作品を前に、読む順番で迷っている人にも、導入編としておすすめです。

短編集といっても、これまで彼が描いてきたさまざまなコンセプトは随所に生きていますので、久しぶりに村上春樹を読んでみようかなと思っている人も、村上文学の醍醐味に触れられると思います。

2.『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社1985年刊)

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド

パラレルワールドの世界へようこそ。この物語は、「ハードボイルド・ワンダーランド」の章と、「世界の終り」の章が交互に進行します。大学時代に初めてこの作品を読んだとき、まずこの構成がとても鮮烈に印象に残りました。

村上作品につきものの「分裂」や「ズレ」は本作にも顕著です。その「分裂」や「ズレ」の分岐点の表裏を読み進め、気がつくと、読者である自分の居場所も、物語に取り込まれているのですから、非常に吸引力のある作品だと思います。

「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公「私」と、「世界の終り」の主人公「僕」は、常に選択を迫られながら、互いに真逆の方向へと突き進み、結末へと追い込まれて行きます。追い立てられながらも、彼らは決して後戻りできない選択を、自ら行っていくのです。それがよい決定なのか、そうでないのかはわかりません。

生きるということは、つまりはそうした選択の連続ではないでしょうか。絶えず分岐点にある状態こそが、生きている私たちの「今」なのです。

無意識の選択を迫られ追い立てられていく展開は、村上春樹の真骨頂ですが、さまざまな「ねばならない」という要請のなかを生き延びていく主人公たちのタフさ、アクティブさは活劇を思わせ、疾走するような勢いある作品となっています。

3.『ノルウェイの森』(講談社1987年刊)

ノルウェイの森

言うまでもなく、村上春樹の大ベストセラーです。

主人公のワタナベは、さまざまな「失われてはならないものの喪失」を抱えて生きています。高校時代の唯一の親友キズキを失い、大学では恋人の直子を失う。緑という別の女性との関係を生きるようになっても、ワタナベは苦しみ続けます。

それは自分の苦しみではなく、直子とキズキについての苦しみなのですが、その心模様に引きずられ、同時に相反する力も感じながら、ワタナベはその狭間で居場所を見出せずにいます。

終盤、大雨の中で緑に電話をかけたワタナベは、「あなたは今どこにいるの?」と聞かれ、「一体僕はどこにいるのだろう」と自問します。あの電話ボックスのシーンに、20代の僕は自分を重ねていました。彼と同様、あの日の僕も、「どこにも行く当てがない存在」だったのです。

自分自身に対して「ズレ続ける」感覚は、村上作品に通底する要素で、この作品も例外ではありません。ズレ続けるなかで出会う、いろいろな場面やいろいろな人を、主人公は受け止めきれないまま受け止め、行く当てがないまま生き続けることしかできないのです。

今、大人になった我々は、果たして「行く当て」を見つけたでしょうか。

4.『海辺のカフカ』(新潮社2002年刊)

海辺のカフカ

「海辺のカフカ」は、「一編の音楽」のような物語です。大学院生のときに出版されて以来、僕のなかでは「永遠」の小説であり、いつ読んでも心を動かされる作品です。

主人公のカフカ少年と、カラス少年の対話では、主語が目まぐるしく入れ替わります。両者が重なったり、ずれたり、入れ替わったりするのですから、まあ、すさまじい描きぶりです。

作者はこうしてさまざまなトライアルを重ねながら、〈不思議な世界〉を作品に取り込んでいくのです。そこでは事実とメタファー(比喩)が混在し、この「メタファー」が作品のキーワードになっています。

行くべき場所がわからず、ズレの修復ができない主人公に、居場所を教えてくれるのは、具体的な存在との出会いです。その具体的な存在とは、石や猫であってもよいのです。

猫が突然話しかけてきて登場人物が困惑したり・逆に平然としている人もいたりして、夢か現実かという描き方がされています。まるでおとぎ話のような、まどろみのなかで聞こえる誰かの声のような、そういった柔らかさが印象的です。

ここでの村上春樹は、象徴的に書き抜くことによって、登場人物を具体的な存在や大切な存在と出会わせていきます。その結果、作品に出てくるすべての存在が、失われ続けていく世界の中で、「失われてはならない世界の一部」となるのです。それがこの作品に、紛れもない希望を与えています。

これほど抽象的な言葉だけで、人間の心の動きや、その場の匂いまで感じさせるような文章に出会ったことは、僕は「海辺のカフカ」以前にありません。日々の暮らしのなかで聞こえてくる、さまざまな音や言葉をすべて遮断した時、その「空白」に聞こえてくるメロディーのような作品です。

村上春樹は、時代を作ってきた作家です。時間、空間、生と死、社会、組織、システム、恋愛、性、暴力といった人間の普遍的なテーマがあるからこそ、誰もが自分を投影して読むことができるのです。

見失った時間、置き去りにしてきた気持ち、ずっと直面できずにきたこと。そういうものに目を向けるきっかけとなる作品も多いと思います。村上春樹を読む際の僕の小さなアドバイスは、あえて深く読み込まないこと。気負わずに、自分が好きな作品を選んで、音楽を聴くように楽しんでみてください。

枡岡大輔(ますおか・だいすけ)
基盤教育機構専任講師。専門は哲学。明治学院大学大学院博士前期課程修士(国際学)、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(地球社会論/生命倫理学専攻)。東京工芸大学、帝京平成看護短期大学、大阪経済法科大学を経て2013年より本学勤務。日本ヘーゲル学会会員、日本ミシェル・アンリ学会会員。共著として『高校生のための哲学思想入門:キルケゴール』(筑摩書房)、『知識ゼロからの哲学入門:デカルト、キルケゴール』(幻冬舎)。茶道の茶碗を愛好し、猫好きでもある。お気に入りの本は、『海辺のカフカ』と『100万回生きた猫』。

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