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コラム

——「世界は一つ」を享受した中国、乗り損ねた日本

ちょうど30年前の1993年8月、日本を代表するエコノミストだった香西泰氏(経済企画庁で「経済白書」執筆。その後、東京工業大学教授を経て日本経済研究センター理事長、政府税制調査会会長を歴任)と一緒に『日本経済フェアプレー宣言』(香西泰・内田茂男編著:日本経済新聞社)を著しました。あまり売れなかったのですが、経済界ではそれなりに話題になったと記憶しています。

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『日本経済フェアプレー宣言』香西泰・内田茂男編著(日本経済新聞社1993年刊)

その後の30年間の日本経済は、「失われた30年」といわれるほどの長期停滞に陥りました。それでは30年前にどのような将来像を描いていたのでしょうか。この本で展開したわたしたちの経済観のどこが正しく、どこが間違っていたのか。今後を展望する手がかりを得るために筆者の経験を交えながら振り返っておきたいと思います。紙数の関係で2回に分けてお届けします。なおこの稿の骨子は、7月18日に行われた千葉商科大学経営者会議で紹介しました。

「1993年は『戦後』という歴史に終止符を打ち、新しい時代の幕開けを告げた記念碑的な意味合いをもった年になるに違いない」。この本は当時のわたしたちの時代認識をこのように表現しています。これには大きく2つの背景があります。

第1は、1991年12月のソ連崩壊で東西冷戦に終止符が打たれたことです。これによってロシアをはじめ旧ソ連圏諸国が欧米諸国や日本と同じ市場経済圏に参入してきました。世界は核戦争の脅威から解放され、「世界は一つ」という空気が一気に広がりました。自由民主主義と市場経済(市場競争)の時代がやってきたと強く感じたのです。

ソ連崩壊のちょうど1年後、エリツィン大統領下の新生ロシアを訪問取材したことがあります。ガイダル首相代行が市場経済化に向けた急進改革をがむしゃらに進めていた時期で、ロシア経済はルーブルの暴落、物価の暴騰で大混乱に陥っていました。ルーブルの信用は地に墜ち、タクシーはアメリカのタバコ1箱で乗せてくれました。とんでもなく安いドルでタクシーを1日雇うという異常な経験もしました。価格自由化政策によってパンを除き生活用品の全ての価格がほとんど毎日変わり、市民は大きな戸惑いを感じているようでした。一方で面会した要人の多くが「社会主義の70年は無駄だった」と述懐していたことが印象に残っています。

しかし、ともかくも閉じた巨大経済圏の旧ソ連圏諸国が市場経済の仲間入りを果たしたのです。旧ソ連圏はもはや鉄の壁の向こう側ではなく、経済的競争相手として登場したということです。そのことを象徴したのが、1993年2月に行われたクリントン大統領の次のような就任演説です。

「アメリカの大統領がこの演壇から議会と国民に語りかけるときは、われわれの直面する挑戦と機会の全領域に触れるのが通例だ。しかしいまは普通のときではない。注意を要する課題は多いが、その一つがわれわれに集中せよ、団結せよ、行動せよと呼びかけている。一緒に我が経済をもう一度活性化しなければならない」

冷戦時代に西側の盟主として君臨していたアメリカの戸惑い、いらだちが垣間見えるのではないでしょうか。

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時代が大きく変わったとわたしたちが感じたもう一つの背景は、70年代から80年代にかけて自動車、各種エレクトロニクス機器から半導体まで、製造業のほとんどの分野で世界を席捲した日本企業、輸出主導型経済成長を推進してきたとみられた日本政府に対し欧米諸国から批判の声が強くなってきたことです。

当時、ソニーの盛田昭夫会長が「日本的経営が危ない」と題する次のような趣旨の論文を発表して大きな反響を呼び起こしました(『文芸春秋』1992年2月号)。

「日本企業は一生懸命努力してコストダウンにつとめ、品質のよい製品を安い価格で供給してきた。しかし、欧米では、このやりかたに批判の声が強い。われわれのルールと違うというのだ。今後は、従業員や株主、地域への利益還元を重視する欧米流のルールに合わせなければ生き残れない」
このような時代認識のもとでわたしたちは次のような内容の「新競争宣言」を提唱しました。

  1. 世界に通用するルールの採用
  2. 日本の全ての制度・慣行の透明化(外から見えない行政指導や競争制限的な各種業界ルールの撤廃)
  3. 公害など社会的費用の負担の適正化

それではその後の展開はどうだったでしょうか。自由民主主義と市場経済が世界をリードする時代が、曲折を経ながらもつい最近まで続いたとみてよいのではないでしょうか。この時代を最も享受したのは中国だと思います。

1992年の1月から2月にかけて、中国共産党の指導者だった鄧小平が広東省や上海など中国南部を巡回し、各地で改革開放を説いて回りました。「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕る猫がよい猫だ」という彼の発言が喧伝されたのもこの時です。筆者はこの数カ月後、南巡講話のあとをたどる機会に恵まれたのですが、訪ねた工場ではどこでも鄧小平の写真と言葉がかかげられ、経営幹部は高い利益目標を掲げて意気軒高としていました。

天安門事件後の経済制裁で元気のなかった中国経済はこの鄧小平の「南巡講話」をきっかけに高速成長に転じたのです。2001年のWTO(世界貿易機関)加入で高速成長に拍車がかかったことはいうまでもありません。
一方で日本経済は、わたしたちの期待を裏切り続けました。この30年間の実質経済成長率(年率平均)は次のように推移しています。

実質成長率の推移
  • 1990年度———>2000年度 0.4%
  • 2000年度———>2022年度 0.6%

1990年度までの5年間は 4.9%で成長していたのですが、その後の30年間はほぼゼロ成長なのです。
この結果、世界経済の中での日本の存在感は大きく低下しました。

GDP(国内総生産)の世界比率(%):IMF
  アメリカ 中国 日本
2000年 31.7 3.5 15.4
2010年 23.3 9.3 8.6
2022年 25.4 18.1 4.2

この結果、実質賃金もゼロ成長に陥ったのです。

実質賃金の推移(1991———>2019 1991=100「新しい資本主義」実行会議

イギリス148
アメリカ141
ドイツ134
日本105

なぜこんなことになってしまったのか、これからはどうなるのか。
次回にまとめたいと思います。

内田茂男

内田茂男(うちだ・しげお)
1965年慶應義塾大学経済学部卒業。日本経済新聞社入社。編集局証券部、日本経済研究センター、東京本社証券部長、論説委員等を経て、2000年千葉商科大学教授就任。2011年より学校法人千葉学園常務理事(2019年5月まで)。千葉商科大学名誉教授。経済審議会、証券取引審議会、総合エネルギー調査会等の委員を歴任。趣味はコーラス。

<主な著書>
『ゼミナール 日本経済入門』(共著、日本経済新聞社)、『昭和経済史(下)』(共著、日本経済新聞社)、『新生・日本経済』(共著、日本経済新聞社)、『日本証券史3』、『これで納得!日本経済のしくみ』(単著、日本経済新聞社)、『新・日本経済入門』』(共著、日本経済新聞出版社) ほか

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