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コラム

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新型コロナ感染症の世界的流行の終息が見通せない中、外国人観光客の受け入れを中止した上で東京大会を実施する方針が発表され、3月25日から聖火リレーが予定どおりはじまりました。しかしながら、聖火リレーの規模は大幅に縮小され、さらに緊急事態宣言もまん延防止等重点措置も延長がつづくなど予断を許しません。代表選考を兼ねた大会で感動的なニュースが伝えられる一方、オリンピックの中止を唱える論者はますます増えてきています。

疫病流行によるオリンピック開催の危機は今回が初めてではありません。2016年のリオデジャネイロ大会も、ジカ熱の流行により一時期は開催が危ぶまれていました。1998年の冬季長野大会が短期的かつ急激なインフルエンザの流行によって、選手村と会場の間を走るバスの中は咳をする人であふれかえっていたとか、インフルエンザに罹患して競技参加をあきらめた選手がいたとか、罹患を恐れて選手村からホテルに移動した選手が続出していたとか、どれだけの人が覚えているでしょうか。人の記憶というのははかないものです。

しかしながら、それ以上に、今回の状況と比較しうるオリンピックがおよそ100年前にありました。1920年のアントウェルペン大会(ベルギー)です。今回のパンデミックがなかったら、おそらくアントウェルペン大会の背後にそんなことがあったということは話題にも上らなかったでしょう。

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アントウェルペン大会は、第一次世界大戦後の復興大会でした(復興大会という言い方も今回の東京大会に通じる部分があります)。西部戦線の場となったベルギーは、第一次世界大戦による被害が最も大きかった国でもあります。フランス占領を目指したドイツ軍の侵攻を受け、同盟軍と連合軍双方の塹壕がつくられた国土は荒廃していました。オリンピックの開催にあたっては、急ピッチで準備がすすめられましたが、十分なものとはなりえませんでした。たとえば水泳競技は河口を利用してつくられたプールでおこなれました。ボクシングとレスリングは動物園が会場でした。また選手の宿泊所には小学校の教室も使われました。

アントウェルペン大会は、はじめて選手宣誓がおこなわれ、五輪旗が採用されたことで知られます。8月14日の開会式では、軍服を着た選手が参列し、「騎士道精神にもとづき、祖国の名誉とスポーツの栄誉のために」戦うことが宣誓されました。兵士によって鳩が放たれ、兵士からスポーツ選手への変容が象徴的に演じられました。鳩は軍用のもので、鳩もまた戦争から解放されたのでした。そして五輪旗が掲げられました。5大陸の団結をうたった五輪旗は1914年には採用が決まっていました。しかしながら、1916年のベルリン大会が戦争で中止となったため、1920年のアントウェルペン大会で初めて披露されることとなりました。

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第一次世界大戦の終戦は1918年11月11日でした。スペイン風邪の呼称で知られるインフルエンザの流行は、すでに同年1月には米国で確認されており、3月にはカンザス州の基地にいた兵士の間での流行が報告されています。米国は1917年から第一次世界大戦に参戦しており、1918年3月から4月にかけても20万人の米軍兵士が欧州に援軍として向かいました。従軍者の間に感染者が出ると、不衛生な環境下で兵士間感染が拡大しました。また帰郷した兵士を町民総出で歓待すれば、そこが新たな感染源となりました。第二波の流行では最も多くの死者が出ましたが、11月11日の終戦の祝賀行事も感染拡大の一因となりました。最後の流行は1920年で、欧州では4月に終息しました。世界中で2,000万~5,000万の命を奪い、欧州では200~230万人ほどが犠牲になったと推測されています。第一次世界大戦の戦死者1,600万人にさらなる犠牲者が積み重なりました。1912年のオリンピックで活躍した選手の多くが第一次世界大戦の犠牲者となり、さらにスペイン風邪の犠牲者となりました。

アントウェルペンは1912年にオリンピック開催に名乗りを上げていましたが、第一次世界大戦、そしてスペイン風邪の流行により決定は遅れました。正式に開催が決まったのは1919年のIOCの会合においてでした。戦禍のひどさから、1920年大会の開催を1年延期し、以後は1925年、29年を開催年にするという提案も出されましたが、1919年4月5日、IOCは予定どおりの開催を決定しました。ドイツの占領から解放されたベルギーは、戦争で中断された近代オリンピックの再興に、そして何よりもスポーツ競技会の復活に相応しい場所と判断されたのです。

とはいえ参加国にとっても準備は困難を極めました。アメリカは1919年11月に参加を表明しましたが、プログラムが届いたのは1920年2月半でした。開会式の開催は8月でしたが、実は競技の日程は1920年4月から9月までと長期にわたっていました。当時、大西洋の横断は船で2週間かかりました。さらに戦争による損害で、商業船の数も減っていました。オリンピック開催が決定されたときには、すでに8月初めまで座席は予約で埋まっていたと言われます。そのため、米国選手団の一部は旅客船の席を確保できず、戦時中、戦没者の運搬に使用された軍用船でアントウェルペンに向かうことになりました。船中はホルマリンの匂いがなお充満していたと記録されています。船が港に到着しても、宿泊所の準備が整わず、さらに船中泊を余儀なくされたこともありました。イギリスでは、そもそも選手団を派遣するかどうかが議論になりました。戦争による負債が重くのしかかり、国家にもイギリスオリンピック委員会にも選手団を派遣する資金がありませんでした。43個のメダルを獲得したイギリスでしたが、公式報告書を印刷する紙代にも事欠き、オリンピック熱は冷え切ることとなりました。

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セーリング競技は14種目で競われましたが、半分にあたる7種目は1チームのみの参加でした。ゴールすれば金メダルです。オランダの2チームのみで競われた種目は、ベルギーでは対戦せず、9月12日にオリンピックが終了した後、アムステルダムでおこなわれました。サッカー以外の観客席は空席だらけだったとも伝えられています。当時、サッカー以外の競技は、エリートのスポーツで庶民が歓声を上げて応援するような競技ではなかったのです。そもそもチケットの価格も庶民が手を出せる価格設定ではなかったという問題もありました。

それでも大会期間中、さまざまな記録が生まれました。日本人によるメダル初獲得もありました。テニスです。メダリストの2名は、ともに当時ニューヨークに勤務していたエリート会社員でした。彼らはアメリカからアントウェルペンに向かいました。日本でのスペイン風邪の流行の終息は、欧州よりも数カ月遅れ、1920年7月でしたから、もしも彼らが日本にいたら、練習を行えるような環境にはなかったかもしれません。

多くの困難を抱えつつもオリンピックは無事に終了しました。しかしながら、ベルギーの組織委員会は財政破綻に陥りました。十分な公式報告書を作成できず、歴史家の手によって完全版と銘打ったものが刊行されたのは、2002年のことでした。

100年前のオリンピックをふりかえってみると、東京大会のあり方を考える数多くの材料を提供してくれていることにあらためて気づかされます。同時に、人間がかくも簡単に忘却する生き物であることもまた思い知らされます。

師尾晶子(もろお・あきこ)
商経学部教授。東京大学大学院人文科学研究科西洋史学専攻博士課程単位取得退学。1997年より本学勤務。史学会評議員、日本西洋古典学会常任委員・編集委員、地中海学会常任委員・編集委員、古代世界研究会委員など。専門は古代ギリシア史。共著として『古代地中海世界のダイナミズムー空間・ネットワーク・文化の交錯』(山川出版社)、『地中海圏都市の活力と変貌』(慶應義塾大学出版会)、『古代オリンピック』(岩波新書)など。

参考

  • Constandt, B. and Willem, A. (2020) ‘Hosting the Olympics in Times of a Pandemic Historical Insights from Antwerp 1920,’ Leisure Sciences, DOI: 10.1080/01490400.2020.1773982.
  • Ellingworth, J. (2020) ‘Planning for Olympics in a Pandemic Has Echoes of 1920 Games, AP News, July 28, 2020 (https://apnews.com/article/tokyo-health-antwerp-flu-2020-tokyo-olympics-6bd4ca3f18691f3e69b3a43e61dc476a [2021年4月9日最終更新日]).
  • Kluge, V. (2020) ‘Antwerp 1920: Proof of the Viability of the Olympic Movement,’ Journal of Olympic History 28(2): 6-19.
  • Llewellyn, M.P. (2011) ‘Olympic Games are an International Farce,’ The International Journal of the History of Sport 28(5): 751-772.
  • Lucas, J. (1983) ‘American Preparations for the First Post World War Olympic Games, 1919-1920,’ Journal of Sport History 10(2): 30–44.
  • Sullivan, K. (1998) ‘The Flu Plagues Olympics,’ The Washington Post, February 19, 1998 (https://www.washingtonpost.com/archive/sports/1998/02/19/the-flu-plagues-olympics/2a2f2015-3951-4277-9061-381e95f56d45/ [2021年4月9日最終更新日]).

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