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本連載では5回にわたり、本学人間社会学部の伊藤宏一教授が提唱する「エシカル経済」について議論を深めてきた。依然として地球環境の危機が進む今、エシカル経済をも含む新たな視点を軸に、経済のあり方を考える必要に迫られているという。望むべき未来へと方向転換するために、カギとなるのは「ウェルビーイング経済」という概念だ。

第6回「ウェルビーイング経済で未来を構築する」
今、求められるのは包括的な視点

——連載の最終回を迎えるにあたり、これまで論じてきたエシカル経済からさらに議論を進め、「ウェルビーイング経済」という新たな概念を提示していただきました。

元々の出発点であるエシカル消費は、消費者の主体的な倫理性や努力といったものがポイントになりますが、消費活動だけでなく、経済全体をエシカルにしていこうというのがエシカル経済のコンセプトでした。その軸のひとつが、最初から廃棄物を出さない設計をめざすサーキュラーエコノミー(循環経済)であり、もうひとつがICTを活用して個人や企業間で資産を共有するシェアリングエコノミー(共有経済)です。個人だけでなく、企業、自治体、国が自らの経済行為を自然に対してエシカルにする=エシカル経済を追求する未来について考えてきたわけです。

ところが、ロシアによるウクライナ侵攻により平和が脅かされ、過剰なエネルギー消費が行われるなど、SDGs達成の障壁となる問題が後を絶ちません。世界は今、緊急を要する状況であるといって過言ではないでしょう。こうした危機的状況から転換するために必要なのが、ウェルビーイング経済という概念なのです。

——「ウェルビーイング」という言葉は日本でも耳にするようになりましたが、「ウェルビーイング経済」というのは聞いたことがない方も多いかもしれません。

ウェルビーイング経済は、スイス法人のシンクタンクであるローマクラブが、2022年9月に発表したレポート『Earth for All 万人のための地球(※)』(=以下『Earth for All』)の中心概念として示したものです。このレポートでは、ウェルビーイング経済の必要性について、次のように言っています。

※ S.ディクソン=デクレーブ他著/武内和彦監訳、監修ローマクラブ日本(丸善出版2022年刊)

地球環境の危機が深刻になりつつあり、この事態を劇的に方向転換して、プラネタリー・バウンダリーの範囲内でウェルビーイングを享受でき、持続可能でレジリエントな社会を実現し、地球環境の安定がもたらされるために必要な人間の営為の質・量と効果的な経済政策をグローバルに展開するためである。
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このレポートでは、私たちは「地球規模の緊急事態の真只中にいる」とも書かれています。ウェルビーイング経済が何たるかをお話しする前に、世界が今、どれほど危機的な岐路に立たされているのかを見てみましょう。

──ドーナツのような図がありますね。こちらは何でしょう。

『Earth for All』にも参画している経済学者のひとり、ケイト・ラワースが考案した地球の現況を示す図です。

図

出典:What on Earth is the Doughnut? (https://www.kateraworth.com/doughnut/)、ドーナツ経済学(幸せ経済社会研究所)(https://www.ishes.org/keywords/2019/kwd_id002698.html)

ドーナツの外側が「プラネタリーバウンダリー(惑星的境界線)」で、9つの分野があります。そのうち、赤く示されている「気候変動」「窒素・リンの水質汚濁負荷」「土地システム変換」「生物多様性の喪失」の4つの過剰が際立っています。

ドーナツの内側は「ソーシャル・バウンダリー(社会的境界線)」で、12の分野における不足を示しています。「水」「食料」「健康」などの欠乏が示されるなか、「ソーシャル・エクイティ(社会的平等)」「ジェンダー・エクイティ(男女平等)」がとりわけ深刻だと認識されています。

持続可能な未来を実現するには、環境分野における過剰と社会的分野における不足をなくし、すべてをドーナツの中におさめる必要があることを示唆しています。

──こうした現況をふまえて、ウェルビーイング経済の必要性に着目されたのですね。

その通りです。『Earth for All』では、ウェルビーイング経済とは「経済が人と地球に奉仕するものであって、人と地球が経済に奉仕するのではないもの」と言っています。さらに、人々に「良い生活」をもたらすものであるとも言及しています。では、良い生活の核となるニーズとは何でしょうか。レポートでは次の5つを挙げています。

尊厳:誰もが快適、健康、安全、幸福に暮らすこと
自然:すべての生命体にとって、再生される安全な自然界
繋がり:帰属意識と共通善を支える制度
公平性:正義が経済の中心にあり、最富裕層と最貧困層の間の格差が大幅に縮小すること
参加:地域社会や地元に根ざした経済への市民の積極的関与

平たく言えば、この5つがウェルビーイングとなる経済をつくろう、というのがウェルビーイング経済です。ご覧の通り、そのニーズは非常に幅広い。尊厳、繋がり、公平性といった要素は、残念ながらエシカル経済の議論では出てきませんでした。サーキュラーエコノミーやシェアリングエコノミーはウェルビーイング経済をもたらす必要条件として挙げられますが、エシカル経済ですべてをカバーすることはできません。今後必要となるのは、ウェルビーイング経済という包括的な概念を理解することではないかと考えます。

ウェルビーイングは政策策定の重要キーワードに

──そもそも、ウェルビーイングという概念はいつ頃誕生したのでしょうか。

1948年に掲げられたWHO憲章の前文で健康について定義されていますが、そこにWell-beingという言葉が出てきます。

Health Is A State Of Complete Physical, Mental And Social Well-being And Not Merely The Absence Of Disease Or Infirmity.
(健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。/ 日本WHO協会訳)

日本では当初、Well-beingは「福祉」と訳されていました。ウェルビーイングの概念に対する注目度は高くなかったのだろうと想像できます。時を経て現在、SDGs3は「全ての人に健康と福祉を」と訳されていますが、原文は"Good Health and Well-being"。これもWelfareと取り違えているとしか言いようがない。日本では、例えば企業のウェルビーイングというと、職場環境や労働条件といった話題になりがちで、今なお福祉に近いイメージで捉えられているのかなと感じます。

一方、OECDの『幸福度白書』では、ウェルビーイングの枠組みを15の次元で捉えています。すなわち、所得と資産、仕事と報酬、住居、健康状態、ワーク・ライフ・バランス、教育と技能、社会とのつながり、市民参加とガバナンス、環境の質、生活の安全、主観的幸福、自然資本、経済資本、人的資本、社会関係資本、といった領域で幸福度を分析しています。

また、OECDが2018年に発表した「教育2030」という文書では、教育目標の基本概念としてウェルビーイングを挙げています。「所得や財産、職業、給料、住宅などの物質的な資源へのアクセス以上のものを含む概念であり、健康や市民としての社会参加、社会的関係、教育、安全、生活に対する満足度、環境などの生活の質(QOL)にも関わるもの」として非常に広いイメージで捉えている。今やウェルビーイングは社会政策や経済政策を策定する際の重要なキーワードとしても使われています。例えば私の専門なら「金融教育の目標は金融ウェルビーイングである」とも言われているのです。

未来を予測する2つのシナリオ

──ウェルビーイング経済が進展すると、どのようなことが起こるのでしょうか。

『Earth for All』では実に壮大なシミュレーションをしています。これには2つのパターンがあって、1980年から2020年に至る軌道を反映した「小出し手遅れシナリオ」と、社会的、環境的ウェルビーイングが促進された場合の「大きな飛躍シナリオ」です。
小出し手遅れシナリオの一部を抜粋すると、

  • 貧困の解消と気候の安定化に向けて、断片的で漸進的な進歩をしているが、不平等には効果的に対応できていない。
  • 10%の富裕層と50%の貧困層が乖離し続け、社会や国家は資源をめぐって互いに敵対する。
  • 2100年までに温暖化が2.5℃に達する。
  • 世界の平均ウェルビーイング指数は、主に不平等の拡大と自然の悪化により、今世紀の大半を通じて低下する。

一方、大きな飛躍シナリオでは、

  • 各国は国際金融機関の変革に着手し、気候、持続可能性、ウェルビーイングに重点を置くグリーンな移行への投資を支援。国民のウェルビーイングを高めることが可能に。
  • 全ての地域で、10%の富裕層の所得は国民所得の40%未満とすべきだという原則と富裕税が支持。政府は失業給付を手厚くし、全ての人々の年金制度を拡大。
  • 富を公平に再分配する政策がほとんどの国で採用され、急速に拡大。
  • 2050年までに全ての農場で再生型農業や持続的集約化を進める技術を利用。
  • 温室効果ガスの排出量は、2030年代から40年代にかけて急激に減少し、2050年代には気温上昇は2℃を下回る水準で安定する可能性が高い。

大きな飛躍シナリオでは、GDPに代わる「ウェルビーイング指数」を使って評価することにも触れています。GDPの上昇はある閾値を超えてしまえば生活満足度の向上に寄与しません。社会の進歩を導く多元的なウェルビーイングに関する指標を、経済の指標として活用すべきだと説いているのです。

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──ウェルビーイング経済に関して、日本ではどのような動きがあるのでしょうか。

実は、日本政府も経済財政運営と改革の基本方針(骨太方針2020)でウェルビーイングに着目しているんです。「地方発のボトムアップ型の経済成長を通じ、持続可能な経済社会の実現や個人と社会全体のWell-beingの向上、『全国どこでも誰もが便利で快適に暮らせる社会』をめざす」と言及しています。ただ、現時点においては、気候変動・富の再分配による格差解消といった規模の問題を、時間軸を立てて解決していくレベルにはありません。あくまでも各分野の施策についてKPI(Key Performance Indicator=重要業績評価指標)を設定する内容に留まっているのが実情です。

この先「手遅れシナリオ」になるのか「大きな飛躍シナリオ」になるのか。今こそSDGs全体に取り組む力を強化し、いつまでに、どの程度の水準のことを、どんなふうにやるのか、政府を中心に考え直していく必要があるでしょう。そのために必要となるのが、ウェルビーイング経済の構想です。日本だけでなく地球規模で経済のあり方を考える時が来たのです。今、方向転換をすれば、飛躍する可能性は十分にあるはずです。

もちろん、個々人の意識や行動を変えることも肝要です。大学も含めた教育の場においても、経済がどうあるべきかを議論する必要があるでしょう。私もこの春から、千葉商科大学の授業でウェルビーイング経済についてお話ししています。未来を担う若者たちにとって非常に重要な視座となるはずです。

伊藤 宏一教授

伊藤宏一(いとう・こういち)
人間社会学部教授。日本FP学会理事。NPO法人日本FP協会専務理事。「金融経済教育推進会議」(金融庁・金融広報中央委員会等で構成)委員。(一社)全国ご当地エネルギー協会監事。専攻はパーソナルファイナンス、サステナブルファイナンス、金融教育、ライフデザイン論。著書等に「サステナブルファイナンス×資産形成 ESG・インパクト投資で人生100年時代を生き抜く」(『FPジャーナル12月号』2021)、「人生100年とライフプラン3.0」(『月刊 企業年金』2017)、『実学としてのパーソナルファイナンス』(編著中央経済社)、H・アーレント『カント政治哲学の講義』(共訳 法政大学出版局)、アルトフェスト『パーソナルファイナンス』(共訳 日本経済新聞社)など。

この記事に関するSDGs(持続可能な開発目標)

SDGs目標1貧困をなくそうSDGs目標7エネルギーをみんなに そしてクリーンにSDGs目標11住み続けられるまちづくりをSDGs目標12つくる責任 つかう責任SDGs目標13気候変動に具体的な対策をSDGs目標17パートナーシップで目標を達成しよう
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