時論

内田茂男学校法人千葉学園理事長(元日本経済新聞論説委員)による時論です。ときどきの社会経済事象をジャーナリストの視点で語ります。

4月下旬、2年半ぶりに上海に行ってきました。そこで垣間見た人々の表情から、なにが見えるのか。すでに担当する新聞のコラムで若干触れたのですが、ここではもう少し丁寧に上下2回で書いてみたいと思います。今回は上海という街について。

筆者が中国を初めて訪問したのは40年近く前の1979年、毛沢東の後を受けて権勢をふるった4人組が失脚し、鄧小平が改革・開放を唱え始めた直後です。後に外務大臣になった大来佐武郎氏(当時は日本経済研究センター会長)の訪中団に同行する機会を得て北京、広州、上海などを回りました。

それから、折りに触れ取材に訪れていましたが、本学に移ってからは政策情報学部が立信会計学院と提携したこともあって、上海に何度も足を運びました。見出しの「管見」というのは、隙間から覗いてみるといった意味合いで使われることばですが、一回限りの見聞ではなく、長期にわたって観察してきたうえでの今回の「管見」という思いを込めて見出しにしてみました。

摩天楼が林立する上海は、ニューヨークのように資本主義の権化ともいうべき国際商業都市だというイメージがあると思います。数年前にNHKが「疾走! 上海」というドキュメンタリー番組を組み、利益至上主義、金儲けに走る熱気を帯びた上海の人々を描いて話題になりましたが、これはやや一面的な見方です。

最初に見た上海は、夜になると明かりがほとんどない真っ暗な中を無数の自転車が音もなく動いている不気味な街という感じでした。いうまでもなく戦前の上海はアジア地域最大の国際都市でした。その繁栄ぶりは、黄浦江西側のいわゆるバンドをはじめ、ロンドンやパリの市街を思わせるような重厚な石造りのビル群が随所に残っていることでわかります。

ちなみにバンドの北側、ガーデン・ブリッジをわたった旧日本人街の入り口には「東洋のウォルドーフ・アストリア」といわれた豪華なホテル、旧アスター・ハウスの建物がいまもそのまま残っています。余談になりますが、東京にいくつもある中華料理店、「銀座アスター」の創業者は、戦前、このホテルの洗練されたサービスに感銘を受けて、現在の店名にしたということです(榎本泰子「上海—多国籍都市の百年」)。

ところが戦後の社会主義経済下では商業の街の活躍の場はほとんどなかったということでしょう。上海が活気を取り戻したのは、鄧小平の「南巡講話」(1992年)以降です。世界から非難を浴びた天安門事件以降、停滞した中国経済の立て直しを図って最高指導者、鄧小平は1992年初頭、上海、深センなど中国南方地域を回り、改革・解放の加速を訴えました。彼は上海を経済特区に指定し、上海を中国の経済発展のシンボルにしようとしたのです。この意味で上海は民営企業の活発な経済活動によって発展したというよりは国策によって作られた政策都市という色彩が強いのです。「南巡講話」直後に彼が歩いた主要な地域をたどったことがありますが、パナソニックなど日本企業の現地工場を含めて鄧小平が訪問した企業に彼の写真と彼の訓示が大々的に掲げられていたのが印象的でした。

こうして上海は、それまで何もなかった浦東地区を中心にマンハッタンをもしのぐ摩天楼街が林立する巨大都市に変身していったのです。とりわけ2010年の万博までが高速発展期といえます。それまでの数年、上海は工事の騒音で沸き返っているような町でした。なにしろ万博までに地下鉄路線が一気に10数路線にまで増えたのですから。万博後は落ち着きを取り戻しましたが、2年前に世界2番目の高さだという上海センター(上海タワー)ビルが完成しました。118階の展望台から上海市を眺めると、鄧小平の改革・開放以降の中国経済の急速な発展ぶりを目の当たりにする感じがしました。
次回は、人々の「心」の変化について書いてみたいと思います。
(2018年5月21日記)


内田茂男常務理事

【内田茂男 プロフィール】
1941年生まれ。1965年、慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。編集局証券部、日本経済研究センター、東京本社証券部長、論説委員等を経て、現在、学校法人千葉学園常務理事、千葉商科大学名誉教授。

<主な著書>
『ゼミナール 日本経済入門』(共著、日本経済新聞社)
『昭和経済史(下)』(共著、日本経済新聞社)
『新生・日本経済』(共著、日本経済新聞社)
『日本証券史3』、『これで納得!日本経済のしくみ』(単著、日本経済新聞社)
『新・日本経済入門』』(共著、日本経済新聞出版社) ほか