教員コラム

政治・経済・IT・国際・環境などさまざまなジャンルの中から、社会の話題や関心の高いトピックについて教員たちがわかりやすく解説します。

国際

現代世界では、長期にわたって続くパレスチナ紛争から、2011年以降激しくなったシリア内戦など、依然として様々な紛争が存在します。国家間の紛争となる大きな原因の一つは、領土問題ともいわれる国境や勢力圏をめぐる争いです。この対立は、紛争や戦争に至ることもあれば、軍事的衝突まで行かなくても、お互いに領有権を主張して外交的に対立している場合もあります。いずれの場合も、問題を根本的に解決することは、歴史的な背景もあって大変難しいことです。現在、日本もいくつかの国境をめぐる問題に直面していますが、ここでは、国境や勢力圏をめぐる争いについて世界的な視点で考えてみたいと思います。

国境、領土とは何か?

現在国際社会を構成する単位は国家ですが、この国家は、国民、国土、主権を有する単位とされています。各国は境界(国境)によってそれぞれの領土が分けられています。ただ国境によって地域を国家に分けるという考え方は近代以降に明確になってきたのであり、それほど古い考えではありません。人々が自分を「○○国民」であると意識するようになるのも近代以降になります。
この時に、国を作る基盤として考えられたのが民族のまとまりです。一民族が一つの国を作るという考えでした。民族とは、同じ言葉や文化などを持っていると考える人たちの集まりです。現在の国を「国民国家」と呼んだりしますが、それはこうした考えに基づくものです。ただ、この国家の境界線と民族の居住地域とが必ずしも同じではない場合や、国境付近では複数の民族が入り混じって住んでいる地域などもあります。そのため歴史的には、国境線をめぐって複数の国が争うことや、国内の少数民族が独立や自治を要求することが起きてきました。

国境をめぐる問題はなぜ起きるのか?

大きな問題は、先に触れた国境と民族の居住地域とのずれがあります。かつて植民地であった地域が独立する際に、旧宗主国がその地域に住む民族の分布と異なる形で国境を設けることがありますが、こうした事態は現在まで続く問題の火種となることが多くあります。例えば、現在のイラク、イラン、トルコの国境が交わる地域では、クルド人と呼ばれる民族が住んでいますが、イギリスやフランスなど大国の意向で第一次世界大戦後にひかれた国境線で複数の国に分割されてしまい、自分たちの国を持つことができていません。そのため彼らは「世界最大の少数民族」と呼ばれています。
また争っている地域に、石油などの地下資源や漁業資源などが存在すると対立がより深刻になる傾向があります。特に最近では、海に面した諸国の間で、より広い範囲の領海(海岸から12海里)や海底資源や水産資源における独占的な利用権がある「排他的経済水域」(海岸から200海里)を確保することをめざす争いが生じています。自国領土から離れた離島の領有権を争ったり、「大陸棚」と呼ばれる陸から続く傾斜が緩やかな海底部分における資源を開発する権利を主張し合う事態も生じています。
対立する国境線は、時には戦争を引き起こします。戦争や軍事衝突によって支配地域を獲得したり、失ったりすることもあります。これまでの歴史のなかで国境は、時々の国家間の力関係によって左右されることも多くありました。ただ、このことは、係争地の領有権を主張する全ての国が納得する形で解決されることにはなかなかつながりませんでした。お互いの主張が対立していれば、敗北した側は、改めて獲得できるよう軍事的政治的準備を行うことになり、問題自体の解消にはつながらないことになります。

世界にはどんな領土問題があるのか?

○アルザス・ロレーヌ問題
領土問題で歴史的に有名なものは、ドイツとフランスの国境地帯にあるアルザス・ロレーヌ地方の所属をめぐる両国の対立です。この地域は、9世紀以降、現在のドイツにあたる地域を支配していた東フランク王国に属していましたが、1648年に締結されたウェストファリア条約ではフランスの領土とされました。その後19世紀の普仏戦争での勝利によって、後のドイツにつながるプロイセン王国はこの地域を併合しました。20世紀に入り、第一次世界大戦後にはドイツの敗北でフランス領となり、第二次世界大戦中にナチス・ドイツの支配下にはいり、戦後はまたフランス領となったという歴史をたどりました。このように、ドイツ・フランス国境地帯にあるこの地は、常に両国が領有を争う対象となっていました。そして、幾度も戦争によってその帰属が変更されたものの、どちらかが支配することで事態が根本的に解決されることはなかったのです。

○パレスチナ紛争
国際紛争のなかでも最も解決が困難であり、中東地域の他の紛争の火種にもなっているのがパレスチナ紛争です。この問題は、同じパレスチナの地に、ユダヤ人とアラブ系住民とがそれぞれの民族国家の建設をめざして生じたものです。紀元前の時代にこの地を追われたユダヤ人たちは、自分たちの国をこの地に建国することを悲願としていました。他方で、そこにはアラブ人たちが既に生活していました。第一次世界大戦前の時代は、この地はオスマン・トルコの支配下にありましたが、第一次世界大戦でオスマン・トルコと敵対していたイギリスが、戦争協力を求めてパレスチナの地にアラブ人とユダヤ人の双方に独立国家の建設を約束したことが、この問題が深刻化する出発点でした。その後、第二次世界大戦後の1947年に国連は、この地の約56%をユダヤ国家へ、約44%をアラブ国家とするパレスチナ分割決議を行い、翌48年にイスラエルが建国されました。周辺のアラブ諸国はこの分割案とイスラエル建国に反対し、イスラエルとの戦争に突入します。しかし軍事力で圧倒したイスラエルが勝利し、国連決議よりもさらに多くの地域を支配することとなります(戦争はその後、1956年、67年、73年と3度にわたって起きています)。そして、イスラエルは1960年代末以降、さらにアラブ支配地域に入植活動を行い、パレスチナ人居住区域に侵食して実効支配地域を拡大しているのが現状です。これに対するパレスチナ側の武装攻撃による抵抗も続いており、和平の取り組みが何度もなされては頓挫するという歴史が続いています。この問題は、国を作る過程で異なる民族間での支配領域をめぐる争いから出発し、戦争や実力によって境界が設定されるなかで、解決の糸口を見出すのが非常に困難な状況となっています。

○カシミール地方問題
植民地からの独立の際に、その帰属をめぐり争いが生じて、未だに国境が画定しないのがカシミール問題です。カシミール地方は、インドとパキスタン、中国が交わる地域の風光明媚なリゾート地でした。しかしこの地は、1947年のイギリスからの独立以降、インドとパキスタンの間で領有権をめぐって争いが続いています。カシミール地方は、イギリスの植民地下では多数の藩王によって支配されていましたが、独立の際に、インドとパキスタンのどちらに所属するかが、問題となりました。住民の多数はイスラム教徒でしたが、藩王たちはヒンドゥー教徒でしたので彼らはインドへの帰属を決めました。しかし、それに反対する勢力との武力衝突が生じ、第一次インド・パキスタン戦争へと発展します。1949年に国連の調停によって、東部をインドに、西部をパキスタンが領有するという形で停戦が実現しました。しかし停戦後も対立は続き、1965年、71年と第二次、第三次の戦争が勃発しました。その後、両国が対話による解決をめざそうと取り組んできましたが、2000年代に入ってもこの地域内外でテロ事件が起きるなど、対話による解決は依然として不安定な状況です。

○フォークランド紛争
フォークランド諸島は、アルゼンチン沖約500キロの南大西洋上にあります。ここは、イギリスとアルゼンチンが領有権を争っている島です。イギリスは、この本国から遠く離れた島に対して、16世紀末に最初に発見し、1833年以来実効支配していることから領有権を主張しています。アルゼンチン側は、この地の存在を最初に確認したのはスペインであり、スペインからこの島の領有権を継承した自国に所有の正当性があると訴えました。この両国の対立は、1982年にはアルゼンチン軍の諸島への軍事攻撃をきっかけに、両軍で犠牲者900名以上をだす軍事衝突へと発展してしまいました。紛争はアルゼンチンが降伏して終結しましたが、アルゼンチンはその後も領有権の主張をし続けています。2010年にはイギリスが周辺海域での油田・ガス田の調査を始めたことに対して、アルゼンチンは抗議しています。資源争奪という要素も加わり、領有権をめぐる対立を解決するのは困難になっています。

国境問題を解決する道はあるのか?

国境をめぐる争いは、当事国の領有権の主張の対立や、資源などの経済的利益、当該国民間の感情の問題などの理由から根本的に解決することが大変難し い問題です。また武力衝突が生じると、そこで犠牲者が出ることでさらに解決が困難になってゆくこともしばしばあります。ただ、歴史のなかでは、この争いを 解決したり、各国の権益争いを抑制する試みが行われてきました。
その代表的な例とされるのが、先にも触れたドイツ・フランス間のアルザス・ロレーヌ地方の扱いです。第二次世界大戦後、1952年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が6ヵ国の加盟国で設立されました。当時、ヨーロッパは、アメリカの要求もあり敗戦国の西ドイツが再軍備を進めるか否かという問題に直面していました。その時に、フランスの当時の外務大臣のシューマンが、ドイツとフランス国境地帯の石炭資源と鉄鋼業の生産や価格などについての共同管理を提案し、それが土台となってECSCは設立されました。この提案の背景には、戦後のヨーロッパでのフランスの影響力を維持するという思惑もありましたが、いずれにしても、それまでの対立の火種ともなってきた経済的利益を「超国家的な」管理を行うことで、領有権争いの物理的原因が取り除かれていくことにつながりました。
経済的権益を主張する各国の動きを抑制した事例として、1959年に締結された「南極条約」の事例があります。19世紀初めころに発見された南極大陸に対して、20世紀初頭からイギリスを皮切りに、ニュージーランドやオーストラリアなど7ヵ国が領有を主張していました。しかし、他国の反対もあり、1959年に南極条約を12か国で締結(2013年2月現在の締結国は50か国)し、南極大陸の軍事利用を規制し、平和的利用と科学調査の自由を認めたのです。これにより、南極大陸に対する各国の領有権の主張は凍結され、その後の南極大陸の開発争いや領土争いは基本的に抑制されてきました(ただ2004年にオーストラリアが自国の領有権を国連の委員会に申請するなどの動きも近年あります)。
この点は、こうした権益争いを抑制する枠組みがない北極圏(北極海)と比べると対照的です。北極圏では近年の北極海の氷の減少や海底資源開発技術の発達から、海洋航路としてや海洋資源獲得の場としての重要性が増しています。1980年代にノルウェーが海底資源の調査を始め、海底ガス田の発掘を行いました。近年ではロシアが、北極点を含む広大な海域を自国の「大陸棚」と主張し、カナダ、アメリカ、デンマークも自国の航路の確保や資源の権益などを主張しています(ロシアは、2014年のソチ・オリンピックの聖火リレーで北極点を回る計画をしていて、北極圏での資源確保の政治的アピールではないかとの指摘もされています)。北極海は、大西洋と太平洋をつなぐルートとして既存ルートよりもかなり短く、海底に多量の石油・天然ガスが埋蔵されているとされています。こうした北極海での権益をめぐる各国の対立は今後も激しくなることが予想されます。
国境をめぐる争いは、歴史や感情、経済的利害が交錯する問題で根本的解決に達するのは大変困難な問題ですが、歴史的に軍事的ではない解決や衝突を回避する道が模索されてきました。ここであげた事例が単純にそのまま今の日本の直面する課題に当てはまるということではありませんが、さまざまな知恵を寄せ合って解決する道を考えていくことが必要です。

参考

解説者紹介

中島 醸