時論

内田茂男学校法人千葉学園理事長(元日本経済新聞論説委員)による時論です。ときどきの社会経済事象をジャーナリストの視点で語ります。

夏休みとか冬休みに入る前に、新聞の書評などで目についていた何冊かの本を買い込むのが習慣となっています。休暇中に集中的に読もうというわけです。ところがすでに読みかけていたり積んである本も数冊ありますから、新規に買い込んだものまでなかなか手が回らないというのが実態です。そうした中で、日本経済のとらえかたについて非常に啓発された本がありました。デービット・アトキンソン氏が昨年末に出版した「新・所得倍増論—潜在能力を活かせない「日本病」の正体と処方箋」(東洋経済新報社)です。今回はこの本を材料に日本経済の立ち位置について上下2回にわけて考えてみたいと思います。

彼の主張は、(1)日本経済の生産性は1990年には世界10位以内だった。しかしその後、生産性はほとんど向上せず、いまや先進国最低である (2)その原因は企業経営者がやるべきことをやっていないからだ (3)日本経済が潜在力を発揮すれば所得倍増も可能だ—というものです。その内容の吟味は次回に回すことにします。今回はほぼ10年ぶりにあざやかな日本経済論を引っ下げて論壇に再登場した、かつての気鋭の金融アナリスト、アトキンソン氏の紹介です。

アトキンソン氏はオックスフォード大学出身のイギリス人で、10年ほど前まで、アメリカ最大(世界最大)の投資銀行、ゴールドマン・サックスの金融アナリスト(日本駐在)として活躍していました。当時、日本の金融界はバブル時代の負の遺産ともいうべき未曽有の不良債権を抱え、当の銀行はもとより政府も金融行政も身動きのとれない状況でした。

不良債権というのは、銀行が貸した資金のうち貸出先の企業の経営難で回収不能かその確率の高い債権(融資額)のことで、金融庁の調査によると2001年度末には銀行全体で43兆円に達していました。これは当時の名目GDP(国内総生産)の9%に相当する大変な金額です。すでに銀行は新規融資に応じられる状態ではなく、信用恐慌による日本経済の破綻までが懸念されていました。筆者は2000年春まで新聞社の論説委員としてこの問題を担当していましたが、この大問題にどう対処すべきか、行政の責任者だった大蔵省の銀行局長と深夜まで議論したことを覚えています。局長にはSPがついていました。

こうした緊迫した状況下でアトキンソン氏は、銀行は勇気をもって不良債権を処分すべきだ、とするレポートを次々と発表していました。ところが自分の責任が問われかねない銀行の経営者は「まだ回収できないと決まったわけではない」と時間稼ぎをねらって具体的な行動をとりませんでした。リスクに挑戦しないいまの企業経営と同じです。

さて不良債権問題ですが、結局は小泉純一郎政権のもとで主力銀行を統合し、政府の資金(公的資金)を投入して不良債権を処分するという荒療治が行われることで問題は解決の方向に向かったのです。この問題に警鐘を鳴らし続けたアトキンソン氏の金融アナリストとしての評価はきわめて高いものでした。その後、筆者がアトキンソン氏の名を久しぶりに目にしたのは、同氏が「新・観光立国論—イギリス人アナリストが提言する21世紀の「所得倍増計画」」(東洋経済新報、2015年)を書いたことを知ったときです。なんと彼は国宝などの文化財を修繕する京都の老舗企業の経営者に変身していたのでした。「新・所得倍増論」はその続編といえます。

ここまでアトキンソン氏の紹介に紙数を費やしました。エコノミストとか評論家と称する人々はいくらもいますし、書店には日本経済モノがあふれていますが、実証に基づいた本物の日本経済論はきわめて限られているといっていいでしょう。そうした中でアナリストらしい徹底したエビデンスに基づいた彼の日本経済論は説得力があります。本欄の読者のみなさんに彼の名前をぜひ覚えておいてほしいと思います。
(2017年8月25日記)


内田茂男常務理事

【内田茂男 プロフィール】
1941年生まれ。1965年、慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。編集局証券部、日本経済研究センター、東京本社証券部長、論説委員等を経て、現在、学校法人千葉学園常務理事、千葉商科大学名誉教授。

<主な著書>
『ゼミナール 日本経済入門』(共著、日本経済新聞社)
『昭和経済史(下)』(共著、日本経済新聞社)
『新生・日本経済』(共著、日本経済新聞社)
『日本証券史3』、『これで納得!日本経済のしくみ』(単著、日本経済新聞社)
『新・日本経済入門』』(共著、日本経済新聞出版社) ほか