時論

内田茂男学校法人千葉学園理事長(元日本経済新聞論説委員)による時論です。ときどきの社会経済事象をジャーナリストの視点で語ります。

ことしの8月は日本に限らず世界各地で記録的な猛暑となりましたが、経済の世界では肝を冷やすイベントがありました。中国・上海市場の株価が暴落し、日本を含め世界の株式市場が震えあがったのです。高速成長を遂げてきた中国経済が急速に減速し始めているのではないか、という警戒感が強まってきているのです。中国経済をどうみたらよいのか、日本としてどう向き合ったらよいのでしょうか。今後折に触れ、この問題をとりあげたいと思います。今回はその皮切りとして、わたしと中国との出会いについて書くことにします。

中国に関心を持ったきっかけは、ほぼ50年前、中国で毛沢東主導の文化大革命が大々的に実行されていた時代です。当時、日本と中国の間に国交関係はありませんでしたが、1964年に日中記者交換協定が締結されていて、文革の様子は、海外からの報道以外に、日本の記者からも伝えられるようになっていました。それこそ、自分の利益よりは他の人(人民)の利益を優先するように人々の動機、モノの考えた方を改革するという毛沢東思想に、わたしを含めて世界中の若者が多少なりとも共感を覚えた時代でした。赤い表紙の原語の毛沢東選集の何冊かはいまだに手元にあります。

新聞社に入社してしばらくして初代の北京特派員として活躍していたS氏がスパイ容疑で逮捕され2年以上も幽閉されたことがありました。この事件は日中の外交問題にまで発展しましたが、S氏は毛沢東が1976年に死去した後、実権を握っていた江青以下の4人組が拘束された直後に釈放され、帰国しました。釈放の直前になって「拘置所の食事が急によくなったので、開放されるのかなと思った」「釈放後の姿がやせ細っていては、新政権の面目がつぶれると考えたのだろう」という話をしていたのを思い出します。

文革時代に国民がいかに苦しみ経済が疲弊したか、さまざまな情報がその後、海外に伝わるようになりましたが、鄧小平が実権を握り、78年に改革開放政策が実行されるようになって様変わりしたといってよいのではないかと思います。資本主義市場経済の仕組みを取り入れながら中国経済は「現代化」の道をたどり始めたのです。その後、さまざまな曲折をたどりながら、世界第二の経済大国へと発展し、現在に至ったということになります。この間、わたしは自分の専門とは別にほぼ一貫して中国の動向に興味を持ち続けました。

最初に訪中したのは4人組の失脚後、3年たった1979年です。外務大臣になる直前の故大来佐武郎氏の訪中ミッションに参加したのですが、北京から上海までさまざまな地域を訪問し、当時はまだ残っていた人民公社や各種の国営企業などを見て回りました。強く印象に残ったのは北京も上海も夜は暗く、どこも自転車と人民服の人々であふれかえっていたことです。わたしにとって謎の大国だった中国に触れたことに言いようのない興奮を覚え、帰国後、前述のS氏と一緒に「10億人の経済」というタイトルで34回の連載記事を書いたことを思い出します。

その後、しばらくして北京駐在の話がもちあがったことがあります。いやがる家族を説得して内示を待っていたのですが実現しませんでした。新日本製鐵の上海、宝山製鉄所の協力プロジエクトが頓挫し、日中関係が冷え込んだ時期にあたったことに加え社内事情もあったということでした。このためしばらく中国から遠ざかっていた時期があります。二度目の訪中は92年で、ちょうど鄧小平が南部地域を視察し、改革開放を鼓舞した南巡講話の足跡をたどりました。以降、何回か訪中して現在にいたっています。ごく最近では9月に短期間ですが上海に行ってきました。次回は、90年代初めから20年以上、中国ウォッチャーとして観察してきた経験を踏まえて現在の中国をどうみるべきか、私見を述べたいと思います。
(2015年9月29日記)


内田茂男常務理事

【内田茂男 プロフィール】
1941年生まれ。1965年、慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。編集局証券部、日本経済研究センター、東京本社証券部長、論説委員等を経て、現在、学校法人千葉学園常務理事、千葉商科大学名誉教授。

<主な著書>
『ゼミナール 日本経済入門』(共著、日本経済新聞社)
『昭和経済史(下)』(共著、日本経済新聞社)
『新生・日本経済』(共著、日本経済新聞社)
『日本証券史3』、『これで納得!日本経済のしくみ』(単著、日本経済新聞社)
『新・日本経済入門』』(共著、日本経済新聞出版社) ほか