時論

内田茂男学校法人千葉学園理事長(元日本経済新聞論説委員)による時論です。ときどきの社会経済事象をジャーナリストの視点で語ります。

この時論を執筆中の7月29日にカンボジア王国で総選挙が実施され、当日開票の速報によりますと、予想通り、最大野党を非合法化した現与党のカンボジア人民党が大勝したということです。現首相のフン・セン氏が引き続き政権を担当することになります。わたしがカンボジアを初めて訪れたのは、1993年8月、ちょうど25年前です。国連監視下で総選挙が実施された直後で、その時のトップがすでにフン・セン氏だったのです。当時のカンボジアはポルポト派の残党がまだ一部で活動している状態で、アンコール遺跡のあるシェムリアップ、トンレサップ湖の周辺は危険だということで、訪れることができませんでした。それがひょんなことで昨年11月、念願のアンコール行脚が実現しました。
そんなこともありまして、今回は2回にわたって、日本では日頃あまり話題にならない、東南アジアの小国、カンボジアについて、つたない経験を記してみたいと思います。

最初の訪問(1993年8月)から話を始めましょう。
カンボジア行きのきっかけは、前年の92年にPKO(Peace Keeping Operation)協力法(国連平和維持活動等に対する協力に関する法律)が成立したことでした。この法律によって自衛隊が国連が実施する海外での平和維持活動に参加することが可能になったのですが、最初の自衛隊派遣がカンボジアだったのです。当時のカンボジアはようやく内戦がほぼ収束し、同国始まって以来の総選挙が国連の監視の下で行われることが決まっていたのでした。まさに国連による平和維持活動です。92年9月に陸上自衛隊がこの活動に参加するために派遣されたのです。
わたしは当時、政府の対外経済協力審議会(首相の諮問機関)の委員を務めていました。この審議会に、陸上自衛隊のカンボジア派遣活動を視察してほしいという要請が政府から来たのです。そこでわたしを含め2人の委員が派遣されることになりました。

まずカンボジアの首都プノンペンにベトナムのハノイから入ったのですが、空港では内戦時に仕掛けられた無数の地雷への警告として、大きな髑髏(どくろ)のマークが掲げられていたのに驚かされました。実際、街に入ると、子供たちを含め、障碍者の多さが目につきました。また現地で会ったほとんどの人々が、家族の中に、ポルポト政権下で犠牲となった者がいる、わたしは生き残りだ、という話をしていました。犠牲者の総数はいまだにはっきりしないようですが、150万人から200万人、国民の4人に1人が犠牲になったとする見方もありました。“キリングヒル”といわれている場所には無数の骸骨を積み上げた記念塔が立っていました。とにかく平和の日本からは想像もできない悲惨な状態を垣間見た気がしました。経済計画を担当するある政府高官が「公務員の明日の給料も払えない」と嘆いていたのを思い出します。

自衛隊の基地は首都プノンペンから車で南へ2時間半ほどのタケオという町に置かれていました。田園の中の頼りない道路を大使館の車で進んだのですが、途中で国連の旗をはためかせて白いジープが迎えに来てくれてホッとしたことを覚えています。
陸上自衛隊の派遣部隊は施設大隊で、任務はカンボジア国民が投票所まで安全に通行できるように、内戦で荒れた道路や橋を整備するというものでした。カンボジア政府の高官は、日本の自衛隊の仕事ぶりを高く評価していました。

それから25年。次回は40年以上にわたってアンコールワットの修復を続けている上智大学の研究グループを紹介しながら、いまのカンボジアについて考えてみたいと思います。
(2018年7月28日記)


内田茂男常務理事

【内田茂男 プロフィール】
1941年生まれ。1965年、慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。編集局証券部、日本経済研究センター、東京本社証券部長、論説委員等を経て、現在、学校法人千葉学園常務理事、千葉商科大学名誉教授。

<主な著書>
『ゼミナール 日本経済入門』(共著、日本経済新聞社)
『昭和経済史(下)』(共著、日本経済新聞社)
『新生・日本経済』(共著、日本経済新聞社)
『日本証券史3』、『これで納得!日本経済のしくみ』(単著、日本経済新聞社)
『新・日本経済入門』』(共著、日本経済新聞出版社) ほか