時論

内田茂男学校法人千葉学園理事長(元日本経済新聞論説委員)による時論です。ときどきの社会経済事象をジャーナリストの視点で語ります。

巣ごもり状態になっていますが、いかがお過ごしでしょうか。とにかく「命を守ろう! 家に居よう!」。一人ひとりが社会の一員としての責任ある行動をとりましょう。それが新型コロナウイルスという強敵への最大の防御策なのです。さて今回も新型コロナウイルスに関連した話題を提供しようと思います。

つい最近、英誌「エコノミスト」のWebページに「スペイン・インフルエンザはなぜ忘れられたのか」という記事が載りました。同誌によると、今年の春は、世界の人口の4分の1が感染し、その10%に死をもたらしたスペイン・インフルエンザの最後の大流行(outbreak)が収束してちょうど100年になるということです。

このスペイン・インフルエンザはこれまでの1000年間の3大パンデミックの一つに数えられるのですが、なぜかほとんど歴史に刻まれていません。どうしてか? それからちょうど100年が経過したところで世界はまたまた新たなパンデミックに見舞われています。この機会に改めてこの問題を考えてみようというわけです。

「『エコノミスト』は、この歴史的パンデミックについてあまり報道しなかった」。この記事の最初にこう書かれています。新聞各紙も同様で歴史書にもほとんど残らなかったとも指摘しています。
その理由として指摘されているのが、当局による検閲です。猛威を振るったパンデミックが第1次世界大戦と重なり、戦意をそぐような関連記事は検閲で消去されたのです。

スペイン・インフルエンザの最初の発生は、1918年3月、アメリカ・カンザス州の兵営だというのがある種、定説のようになっていますが、その他にフランスの英軍基地説、中国起源の渡り鳥説などもあり、専門家の間でもいまだに定説はないようです。いずれにしろ1918年の春には英国もフランスもドイツも、さらに日本も世界の先進主要国は戦争遂行に追われていました。軍人はもちろん、あらゆる労働者も工場も、国家に動員されていたのですが、新型インフルエンザの蔓延によって、弾薬を含む多くの武器の生産に支障をきたすようになっていったといいます。

しかし、そのことは隠されていたのです。ただ中立国として戦争には参加していなかったスペインではそれなりに報道されていました。スペインが発祥地ではないことははっきりしているにもかかわらず、「スペイン・インフルエンザ」といわれるようになったのはこのためです。なお日本では、「スペイン風邪」という言い方が長年定着していますが、これは正確な表現ではありません。風邪とウイルス性のインフルエンザは別物です。

先日、大恐慌前のバブル景気の時代、「狂乱の1920年代」を振り返る必要があって、「オンリー・イエスタデイ」(F.L.アレン著)をめくっていて気がついたことがあります。この本は、1919年5月、第1次世界大戦の休戦記念日から6カ月後、「アメリカの中流の平凡な若夫婦のおだやかな一日」の記述から始まり、自動車・ラジオの時代、石油の世紀を欧歌したアメリカの繁栄ぶりを豊富なエピソードで描いた名著なのですが、はじめのころは大流行していたはずのスペイン・インフルエンザには1行も触れていないのです。まさにアメリカの歴史に、そんなものはなかった、といわんばかりです。

日本の人口統計史の草分けであり重鎮だった故速水融教授は、名著「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」(2006年、藤原書店刊)の中で「古い人体の組織片から、スペイン・インフルエンザ・ウイルスが分離されるようになったのは、(流行後70年以上経た)1990年代のこと」と書いています。この長い間、世界の誰もその病原体について正確には知らなかったのです。歴史に残らなかったからに違いありません。

速水教授は、「新型インフルエンザに対する構えは、過去の歴史を知ることから始めなければならない」と、日本でも数十万人もの死者を出したスペイン・インフルエンザについて、日本で初めての本格的研究書を著わした動機を明らかにしています。いまこそかみしめる必要がある言葉だと思います。
(2020年4月20日記)


内田茂男常学校法人千葉学園理事長

【内田茂男 プロフィール】
1965年慶應義塾大学経済学部卒業。日本経済新聞社入社。編集局証券部、日本経済研究センター、東京本社証券部長、論説委員等を経て、2000年千葉商科大学教授就任。2011年より学校法人千葉学園常務理事(2019年5月まで)。千葉商科大学名誉教授。経済審議会、証券取引審議会、総合エネルギー調査会等の委員を歴任。趣味はコーラス。

<主な著書>
『ゼミナール 日本経済入門』(共著、日本経済新聞社)
『昭和経済史(下)』(共著、日本経済新聞社)
『新生・日本経済』(共著、日本経済新聞社)
『日本証券史3』、『これで納得!日本経済のしくみ』(単著、日本経済新聞社)
『新・日本経済入門』』(共著、日本経済新聞出版社) ほか