時論

内田茂男学校法人千葉学園理事長(元日本経済新聞論説委員)による時論です。ときどきの社会経済事象をジャーナリストの視点で語ります。

政府は12月15日、後期高齢者の医療負担を引き上げることをうたった、全世代型社会保障検討会議の最終報告「全世代型社会保障改革の方針」を閣議決定しました。7年8カ月に及んだ安倍晋三最長政権の後任として9月に誕生したばかりの菅義偉首相の構造改革政策の第1弾といってよいでしょう。

その柱は、現役世代の負担軽減のために75歳以上の後期高齢者の医療費の自己負担(窓口負担)の割合を、現在の原則1割から一定所得以上の高齢者については2割に引き上げ、団塊の世代が後期高齢者となり始める2022年度中に開始する、というものです。ここに至る過程で連立を組んでいる公明党や自民党の一部から議論の延期や棚上げを求める声が強くなっていました。しかし菅首相が2割負担導入、2022年度開始という基本線の譲歩には応じなかったのです。

与党内に反対が多かったのは、衆議院選挙が近づいているからです。4年間の現行衆議院の任期は2021年10月までです。それまでには総選挙があるのは確実で、選挙に際しては投票率の高い高齢者を味方につけたい、そのためには高齢者の負担が増す制度改正は避けたい。こうした思惑が働いたのです。さらに、負担が増せば高齢者が病院を避けるようになり、病院経営に悪影響が及ぶと懸念する医師会の声も反映したのではないかと思われます。

菅首相の決断は、大いに評価したいと思います。その意味は2つあります。1つは、少子高齢化が進む日本経済の最大の政策課題である財政・社会保障制度改革に一歩踏み込んだこと、もう1つは、既得権層の権益打破に動いたことです。

ここで既得権層というのは、現在の社会経済の各種制度をもっとも享受している人々のことです。医療費負担問題でいえば、病気になる確率の高い高齢者の医療費の相当部分は、現役世代の援助によって賄われています。厚生労働省の資料によりますと、現役世代1人当たりの後期高齢者支援金は2020年度で約6.3万円(月間約5,200円)にのぼるということです。つまり後期高齢者は現在の制度でトクをしている既得権層ということになります。その高齢者を患者として受け入れている病院も同様です。もっといえばそうした既得権層に支持されている与党もまた既得権層だということになります。

既得権層が現状の改革に抵抗するのは当然です。歴代政権が「構造改革」を標榜しながら十分な成果を上げてこなかったのもこのためです。例外は、日米間で1989年から90年にかけて行われた「日米構造協議」による日本経済の構造改革なのではないかと思います。これによって系列関係や土地取引規制の見直し、各種の排他的取引慣行の是正などさまざまな構造改革が進みました。象徴的なのは、大規模小売店舗法の抜本改正によって、厳格に規制されていたスーパーマーケットなどの大規模店舗の市街地への設置が容易になり、アメリカの大型玩具販売店、「トイザらス」が進出してきたことでしょう。このような「外圧」がなければ小売店舗の既得権排除は難しいとみられていたのです。ただこれによって既存の商店街がすたれる引き金となったのも事実です。

菅首相はまた、成長政策の柱として、2050年までに温暖化ガスの排出量を実質ゼロとする脱炭素政策、「2050年カーボンニュートラル」を掲げています。これによってすでに「50年実質ゼロ」を宣言している欧州連合(EC)に並んだことになります。なおアメリカのバイデン次期大統領も「50年実質ゼロ」を公約しています。この場合の既得権層は火力発電に依存する電力業界や電力価格の上昇を懸念する鉄鋼、自動車などの電力多消費産業です。いずれも日本経済を支えてきた基幹産業だけに政界への影響力は大きいはずです。菅首相の突破力に期待したいと思います。
(2020年12月21日記)


内田茂男常学校法人千葉学園理事長

【内田茂男 プロフィール】
1965年慶應義塾大学経済学部卒業。日本経済新聞社入社。編集局証券部、日本経済研究センター、東京本社証券部長、論説委員等を経て、2000年千葉商科大学教授就任。2011年より学校法人千葉学園常務理事(2019年5月まで)。千葉商科大学名誉教授。経済審議会、証券取引審議会、総合エネルギー調査会等の委員を歴任。趣味はコーラス。

<主な著書>
『ゼミナール 日本経済入門』(共著、日本経済新聞社)
『昭和経済史(下)』(共著、日本経済新聞社)
『新生・日本経済』(共著、日本経済新聞社)
『日本証券史3』、『これで納得!日本経済のしくみ』(単著、日本経済新聞社)
『新・日本経済入門』』(共著、日本経済新聞出版社) ほか