ボッチャパラリンピック代表髙橋和樹選手の特別講義を開催しました

お知らせ

2017年4月1日

2017年1月11日の特別講義において、本学卒業生でリオデジャネイロパラリンピックにボッチャ代表として出場した髙橋和樹選手に講演いただきました。

はじめに

髙橋和樹さん皆さん、こんにちは。昨年9月にリオデジャネイロで開催されたパラリンピックに出場した髙橋和樹です。
私は2003年に商経学部経済学科を卒業しました。ちょうど私が2年生の頃にこの7号館が完成し、何度か一番後ろの席で授業を受けたことを懐かしく思い出しています。

大学卒業後は、埼玉県にある「自立生活センターくれぱす」というNPO法人で働いています。その職場近くにアパートを借りて一人暮らしをしていますが、私には日常生活のいろいろなところにサポートが必要なため、その生活の中で多くの時間、介助者を入れています。今日も隣りにサポートの方に座ってもらい、パソコンの操作などをしていただきながら進めていきたいと思います。

今日は「リオパラリンピックに出場して」というテーマで話をさせていただきますが、皆さん、障がい者スポーツのボッチャを知っていますか。
9月にリオで行われたパラリンピックで初めて日本のチームが銀メダルを取りました。そのニュースは日本でも流れたので、新聞やテレビで見たことがある人もいらっしゃるかと思います。

ボッチャというのは、赤と青のボールをそれぞれ6球ずつ投げたり転がしたりして、的となる白いボールにいかに寄せていくかというのが基本ルールです。もともとボッチャは重度な障がいのある人ができるスポーツとして考案されたもので、私のように電動車椅子に乗っている重度の障がい者がパラリンピックに出場する可能性のある唯一の種目です。

障がいのある人もない人も、年齢や男女を問わず、誰もが競い合うことのできるユニバーサル・スポーツでもあります。障がいの程度によってクラス分けがされており、私の場合は自分でボールを投げたりころがしたりができないので、ボールをころがすランプという道具を使うクラスです。またボールを置いたりランプを動かしたりするのに競技アシスタントがサポートに入って、一緒に戦う形になります。

ボッチャとの出合い

私がボッチャに出合ったのは今から3年ほど前です。
ボッチャに出合ってから私の人生は大きく変わりましたが、3年前はどういう生活をしていたかというと、平日は今と変わらず「自立生活センターくれぱす」で仕事をし、休日は飲み会に行ったり、年に何回か旅行に行ったり、多くの人と出会うためにいろいろなイベントに参加したりと、それはそれで楽しく生きていました。ただ生活していても、柔道をしていた頃と同じような勝負にこだわる熱い気持ちなどという刺激が自分の中では足りなくて、自分にとってスポーツはやるものではなく観戦するものという捉え方に変わっていた中で、何か勝負をする気持ちを味わいたいと思っていて、年に1回、韓国のソウルに行きカジノをすることで、勝負をする気持ちを味わい、自分の心を満たすようにしていました。そんな生活を送っていた今から4年前に、東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定しました。

私は2020年に40歳になります。皆さんも今から3年後、自分がどんな姿でいるかイメージできている人もいれば、わからないという人もいるかもしれませんが、私は自分の3年後、2020年になったときの姿を想像してみた時に全然楽しみに思えなかったのです。

2020年に40歳になって今より体も衰えて楽しくないのかなとか、良いことがあるとか想像がつかなくて、そんな時にふと、東京オリンピック・パラリンピックの開催に合わせて、「自分がもし2020年に東京パラリンピックに出場していたらどうなのか」と想像してみたら、何かすごく楽しみになりました。よくテレビでも「東京オリンピック・パラリンピックを応援します」というスポンサーのCMが流れますが、そういうのを見るたびに他人事には思えなくなり、東京パラリンピックに出ようと決心しました。

しかし、出ようと決めた時は当然何のスポーツもやっていませんし、どういう競技で出ようとも決めていませんし、何の競技に出られるかもわかりませんでした。
ただ自分が出ることのできる競技を探した時に、唯一可能性としてあるのがボッチャでした。それで「ボッチャで東京パラリンピックに出る」と決め、自分が練習できる環境を探し、2014年3月に埼玉ボッチャクラブに入って、初めてボッチャをやりました。

初めのうちは未経験ですし、練習しても全く相手にならず、どうしたらこの人たちに勝つことができるかということばかり考えていました。私の所属する埼玉ボッチャクラブは全国でもトップレベルのチームで、本当にレベルが高かったのです。

そんな中で練習をさせてもらい、競技を始めて3カ月ほどして初めて公式戦に出ました。公式戦は埼玉県選手権大会といって埼玉県の1番を決める大会ですが、埼玉県は全国でもかなりレベルの高い県なので、そこで優勝したり勝つというのはとても大変なことです。そこへ出場して3人と対戦しました。そのうち1人だけが決勝リーグに進むことができます。

1人目の相手は過去に日本チャンピオンに5回なっており、ボッチャ界ではレジェンドと呼ばれているぐらいの人でとても強い相手でした。ボッチャは男女関係なく対戦しますが、初戦の相手はそういう人だったので全く相手にならず負けました。
2人目は20歳ぐらいの選手でしたが、ジュニアの国際大会で銅メダルを取っているほど強く、対戦して当然負けました。次は中学校2年生ぐらいの、私より半年ほど早くボッチャを始めた選手で、周りで見ていた人はさすがに「この人には勝てるだろう」と思っていたようですが、結果としては負けました。

見事に3戦全敗して、他のリーグとの得失点を見ても私が一番点数を取られ、結果的にこのデビュー戦では、埼玉県の中で一番弱い選手というのが私になりました。
この大会の決勝戦を見ていて、自分の中で1年後にこの舞台に立って優勝することを—つの目標にしました。柔道をしていた時もそうでしたが、どうしたら自分は強くなれるか、どうしたら上達するかと考えた時に、やはり練習しかないと思いました。習い始めなので経験値としては他の選手にはかなわない分、他の誰よりも練習する、人の倍、ボッチャのことを考えるという形で、それからの1年間はボッチャを中心にした生活に切り替えました。

埼玉県選手権からリオパラリンピックへ

悔しさと屈辱感しか残らなかったデビュー戦から1年後、埼玉県選手権で優勝することができ、埼玉県で一番弱い選手だった私は埼玉県で一番強い選手になることができました。 そしてその年に行われた日本選手権ですが、レベルの高い埼玉県で優勝できたので次も優勝するしかないと思って練習に励み、その日本選手権では初めての出場でしたが、日本チャンピオンになることができました。
その結果、日本代表として、昨年3月に北京で行われた世界選手権に出場し、初出場でしたが準優勝を納めることができました。この結果には、実力というより運が自分に巡り回ってきたという感じはありましたが、準優勝を納めることでパラリンピックの出場権を獲得することができました。

そして、昨年9月2日から20日までブラジルのリオデジャネイロに行ってきました。
ブラジルヘは日本からロンドンまで18時間飛行機に乗り、ロンドンに1泊して翌日、ロンドンからさらに12時間飛行機に乗って行きます。
これまで北京に行った4時間ぐらいの飛行機が一番長かった私には、正直30時間も飛行機に乗るというのは未知の世界で、かなり体もきっかったのですが、何とかブラジルに着きました。リオに着いてからの生活というのは、基本的に、選手村に世界l60カ国以上から4千人以上の代表選手が生活するビルが建っており、そのうちの1つが日本代表用になっていてそこで生活をします。

選手村の中にはグラウンド、公園と、何でもそろっていて、アクレデイテーションカードという身分証を持っていれば食事、宿泊、トレーニング、クリーニングなどのサービスを全て24時間、自分が使いたいように使うことができます。しかし、途中から食事に飽きてきて、マックに行ったりしていました。スタッフやトレーナーも、フリーの時間には公園に行ったりして自由に過ごしていました。

リオでの戦い

現地時間の9月7日に開会式が行われました。
開会式は、私のこれまでの人生の中では経験したことのないほどの華やかさと盛り上がりの空間で、スタジアムに入った瞬間にたくさんの人を見、たくさんの声が聞こえ、それを経験できてとても良かったと思います。翌日にボッチャ競技が開幕し、個人戦のみ出場の私は、初めはチーム戦の応援や対戦相手の分析をしたりしていました。チーム戦で日本が銀メダルを取った翌日に、私の待ちに待った初戦がスタートしました。個人戦は3人1組の予選リーグで、2人の選手と戦い1人だけが決勝リーグに上がることができます。

初戦は本当に今までにないほどの緊張で、どんな戦い方をしていたかも覚えていないほどです。いつもなら試合が始まると少しずつ緊張もなくなってくるのですが、試合が進むごとに体調が悪くなっていくほどの緊張でした。そんな中、相手のミスもあり何とか勝つことができました。

2戦目は世界ランキング上位の選手で、勝ったほうがベスト8に上がることになります。その相手と戦い、結果的には経験値、実力ともに全く歯がたたず負けてしまいました。この結果、私のパラリンピックはわずか2戦しかコートに立つことができず、あっという間に終わりました。

今回18日間、パラリンピックの選手としてブラジルに行きましたが、ボッチャの日本代表選手が5人いた中で4人は団体チームの選手だったので、私だけがメダルがない形での帰国となりました。正直、日本に帰るのはとても嫌でした。成田空港に着いた時には行きとは比べものにならないほどのメディアや多くの方が来ていて、その時の悔しさと帰国したくなかったという気持ちは、本当に一生忘れられないと思います。
ただ、その悔しさがある分、4年後に同じ過ちを繰り返さないようにするためには何が必要か、今回の悔しい思いをどう繋げていったらよいかと考え、今も練習に励んでいます。

東京パラリンピックへの道

私は障がいを持って今年で20年になりますが、ケガをしてからずっと、柔道と同じくらい熱くなれるものを自分の中で探していました。そしてボッチャと出合ったことによって、勝負にこだわって生きるということが、どれだけ自分の有意義な人生に繋がるのかということや、たくさんのことに気付くことができ、また、今でも柔道をしていた時と同じ感覚が忘れられない、ということを再確認することができました。

私がボッチャを始めたのは、東京パラリンピックに出場するためでした。4年早くパラリンピックに出場できたことで—つの目標が達成できたわけですが、今も東京パラリンピックヘの出場が目標かというと、そうではありません。 今回出場してみてやはり、出場するだけでは駄目だということを自分の中ですごく感じ、今、目指しているところは東京パラリンピックでの金メダル獲得です。ただそうはいっても世界の強さを肌で感じており、今のレベルでは雲の上の存在ですし、優勝は到底無理ですので、これからの3年間でしつかりと練習をして、少しでも世界で戦える実力をつけていく必要があります。

さて、世界で戦っていくためには練習量や練習内容も重要ですが、世界ランキングで上位に入っていく必要があります。どんな競技もサポートをする上で資金面が間題になってきますが、特にボッチャの場合はマイナーな競技なので、国際大会に出るにしても、とても個人 負担が大きいのが現状です。
私が世界選手権で北京に行った時は、自己負担が28万円でした。私の場合、選手の私以外に生活の介助者1人と競技アシスタント1人の計3人分の費用負担が必要になってきますので、世界選手権に1回出場しただけでも84万円の自己負担が出てしまいました。 これから東京パラリンピックに向けて戦っていくためには、年に2、3回国際大会に出場して結果を残していく必要があります。そのためには実力だけではなく、自分が競技に専念できる資金面のことも考えていく必要があるので、そういった競技者として世界を目指す環境作りにも力を入れていかなければならないと思っています。

ユニバーシティ・アワー

皆さんへのエール

私はずっと、自分の生き方を模索し続けてきました。 その結果、世界選手権で準優勝、パラリンピックに出場という形で、自分では数年前までは想像もできなかったことが今、自分の人生に起きています。 高校2年生の時に障がい者になり、その20年後にパラリンピックに出場ということで、本当に人生には何が起きるかわからないし、何を起こすことができるのかもわからないのが人生と思っています。

きっと皆さんのこれからも、今、想像つかないことがたくさん起きると思いますし、また、自分では想像もつかないことを起こすことができる力を皆さんは持っていると思います。
生きていく中でうまくいかないこと、嫌になることもあると思います。 私自身、ボッチャをやっていてうまくいかないことのほうが圧倒的に多いですが、それを続けていくことによって見えてくるものがあり、それが自分の未来の可能性を広げていくことにも繋がっていくと思います。ですから、何事も続けていくことに意味があると思っています。

今、皆さんの中で将来の目標が見えている人はそこに突き進んでいけばよいし、まだ見えていない人は、これからきっと、ふと何かに興味を持ったり、やってみようと思うことがあると思います。私は何の目標もなく自分の人生を探していた時に、東京オリンピック・パラリ ンピックの決定を見て、ふと「東京パラリンピックに出よう」と思い行動したことで自分の人生が大きく変わりました。皆さんも、もし何かやってみようとか興味を持ったことがあれば、まず行動してみてください。迷っているぐらいだったら動いてみることが大切なのではないかと思っています。

最後になりますが、私は生きていく中で、自分がかっこいいと思える生き方を常に探しながら生きています。今は2020年に世界一になること、それが自分の中で一番かっこいいと思える生き方です。

これから私は2020年に向けて、千葉商科大学の卒業生という看板を背負って世界で戦っていこうと思っています。少しでも多くの方に応援していただけたらと思っていますので、今後も今日を機に私のことを知っていただけたらと思います。そして皆さんも自分の未来を切り拓いていっていただけたらと思っています。

髙橋和樹選手略歴
5歳から柔道を始め、小学校では埼玉県少年柔道大会で優勝、全国少年柔道大会へ出場。 中学校では東京都中学校柔道大会と関東中学校柔道大会で優勝、全国中学校柔道大会へ出場。高校2年生の時に遠征中の名古屋での試合で頸椎損傷の大けがを負う。 その後、高校に復学、千葉商科大学商経学部経済学科に進学。 卒業後、2003年より「NPO法人自立生活センターくれぱす」に入社。 2013年9月、東京オリンピック・パラリンピックの開催決定に刺激を受け、東京パラリンピックに競技者として出場することを決め、2014年3月よりボッチャを始める。

ボッチャでの主な戦績
2014年3月 埼玉ボッチャクラブ所属(初練習)
2015年7月 第8回埼玉県ボッチャ選手権大会 個人戦優勝(初優勝)
2015年12月 第17回日本ボッチャ選手権大会 個人戦優勝
2016年2月 第12回関東ボッチャ選手権大会 個人戦優勝
2016年3月 世界選手権大会(北京) 個人戦2位(世界選手権銀メダル獲得は日本人初)
2016年6月 第9回埼玉県ボッチャ選手権大会 個人戦優勝(2連覇)
2016年9月 リオデジャネイロパラリンピック大会出場 個人戦予選リーグ敗退(1勝1敗12位)