教員コラム

政治・経済・IT・国際・環境などさまざまなジャンルの中から、社会の話題や関心の高いトピックについて教員たちがわかりやすく解説します。

地域・暮らし

2013年、またもや食品偽装問題が世間を賑わせました。10月22日には阪急阪神ホテルズが、11月19日にはリーガロイヤルホテルが、メニューに記載されたものとは異なる食材を使用したことを公表しました。「鮮魚」や「フレッシュジュース」と称して冷凍魚や既製品のジュースを販売したり、「車海老」と称してブラックタイガーを使用していたとのことです。当然のように、二つの会社は世間から強い非難を浴び、阪急阪神ホテルズでは社長が辞任に追い込まれました。

ここで一つ波紋を投じたいと思います。これってそんなに大騒ぎするほどの事件でしょうか?たしかにホテルでちょっとお高い食事をしようと思った人にとってはふざけんなという話です。でも、「羊頭狗肉」という言葉が生まれたように、昔から売り手は商品の中身を「盛る」ものですし、わたしたち買い手はそれが「ぼったくり」だと思わないレベルであれば、普通は売り手の「盛り」を飲み込んで買い物をします。

「食品偽装はわたしたちの安全に関わる問題である。だから厳しく糾弾しなければならない」。なるほど、その通りです。事実、過去には消費期限や違法な添加物を混入した食品偽装が問題となったこともありました。でも、今回の事件は危険な食材が使われたという話ではありません。メニューの表記と違うちょっと安い食材が使われていたという話です。

2つのホテルで行われていた食品偽装はJAS法や景表法など幾つかの法律に違反しています。だから、世間がこの偽装を問題視するのは当然といえば当然。でも、法律に違反しているだけなら、事件は他にも山ほどあります。そうした他の事件に比べると、「高級ホテルを売りにしているくせに稼ぎ方がちょっとせこい」程度のこの問題が、ここまで世間の非難と注目集めてしまうのはちょっと不思議な気がしませんか?みんな誰かを叩けるネタができたので騒ぎすぎただけなのでしょうか。それとも、これが「騒ぎすぎ」ではないとしたら、そこには人々が騒ぐだけのどんな理由があるのでしょう。

わたしたちの日常生活は、実はわたしたちの知らない技術や知識で成立しています。わたしは車がなぜ安全に走行できるのか、そのメカニズムを知りません。スカイツリーがあんなに高いのになぜ倒れてこないのかも知りません。知らないのに、毎日車に乗り、高層建築の中で生活しています。わたしが車に乗るたびに一々身の危険を感じずにすむのは、わたしが車をつくった専門家の技術や知識を信頼しているからです。同時に、車が安全に走行できるように作られた日本の交通システム—信号や横断歩道、一方通行や右折ルールなどなど—が正しく機能していることを信頼しているからです。もし、こうした技術やシステムに対する信頼がなければ、わたしは怖くて一歩たりとも家を出ることができないでしょう。

ところが、最近は以前ほど安心して毎日を過ごすことが難しくなってきたようです。自動車のブレーキシステムが疑われ、交通マナーが疑われ、大地震の可能性が報道され、高層建築の耐震設計が偽装されている。恐ろしいのは、疑いを持っていてもわたしたちはその疑問を一々確認して安心する方法を持っていないことです。なぜなら、それは個人が確認するには専門的すぎるし、また、確認のしようが無いほどにわたしたちの生活すべてが、わたしたちの知らない専門的な知識や技術で作られているからです。

社会学者は今の日本のような社会のことを「リスク社会」と呼びます。わたしたちが暮らしている現代社会では、無数のリスク、すなわち不確実な事柄が溢れるようになり、わたしたちの日常は「疑い」に満ちていきます。しかし、だからこそ、人々は同時に「信頼」を強く求めもします。自動車や高層建築抜きでわたしたちの暮らしが成り立たないのだとしたら、わたしたちは積極的に専門家やシステムを信頼するしかないのです。こういった信頼のことを「能動的信頼active trust」といいます。

食品偽装はわたしたちが信じるべきシステムに瑕(きず)をつける行為です。「鮮魚」だと表記されていたのに実は冷凍魚だった。ということは、もしかすると新鮮だと偽って古いものを食べさせているかもしれない、危険な食品添加物も使用しているかもしれない、遺伝子組み換えをしているかもしれない、いやほかにも…、といった形で疑いが深まればわたしたちの日常は成り立たなくなってしまいます。高級ホテルの食品偽装を、「お前らせこいぞ」と軽くいなすことができなかったという事実が、日本がリスク社会であることの1つの証となっているのです。

ところで、1998年にアメリカで制作された映画に『トゥルーマン・ショー』という作品があります。コメディアンのジム・キャリーが主演したこの映画は、コミカルな作りとは裏腹に、現代社会のシリアスな「疑い」と「信頼」の緊張関係を描いています。

世界的な人気番組『トゥルーマン・ショー』。それは、トゥルーマン・バーバンクという男の人生を出生から現在まで20年以上に渡ってこっそり撮り続けるという究極のリアリティショーでした。トゥルーマンは自分が撮影されていることを知らず、半径数十キロに及ぶ巨大なセットを本物の世界だと疑わずに生活してきました。ところが、小さな綻びから、トゥルーマンは自分の知っている世界が「にせもの」ではないかと疑いはじめます。

自分を取り巻くあらゆるものを疑いながら真相に辿り着いたトゥルーマンに対して、ラストシーンで番組のプロデューサーが語りかけかます。「君は安心で穏やかな生活を捨てようとしている。その扉を開けると後悔するぞ」と。その言葉を聞いたトゥルーマンは笑顔で扉を開けて外へと出て行きます。

この映画はコメディタッチのドラマですが、よく考えてみるとトゥルーマンの人生はひどいものです。本当の父母の顔を知らず、友人も、愛し合って結婚したはずの妻も彼を欺く役者の一人に過ぎなかった。しかし、トゥルーマンはすべてを疑いながら、それでも一方で何かを信じてセットの扉を開けたのです。

わたしたちは、ある意味ではトゥルーマンと同じです。リスク社会に生きる人々は、自分たちがどんな世界に生きているのかを完全に知ることはできず、しかも、その世界が安全であることに確信が持てない。だから、世界や世界を動かしている仕組みを傷つけようとする行為を厳しく糾弾します。しかし、一方でわたしたちが安心を手に入れるためには、どこかで「疑う」ことをやめて、何かを「信頼」することも必要になります。「疑い」と「信頼」の狭間で、わたしたちもトゥルーマンが笑顔で開けた扉を見つけなければならないのです。

解説者紹介

権 永詞