教員コラム

政治・経済・IT・国際・環境などさまざまなジャンルの中から、社会の話題や関心の高いトピックについて教員たちがわかりやすく解説します。

IT・デザイン

1. 映像の洪水のなかを生きる私たち

「気分転換にネット動画見よう」と、ちょっとのつもりが、気付いたら数時間経ってた……ということはないですか? しかし、映像との関わりはもっと広がっています。テレビ番組やアニメ—ション、ゲーム、映画、電車や街中のディスプレイ……私たちは朝起きてから眠りにつくまで、さまざまな「映像」とつき合ってます。そして、それはおそらく一生続くのです。日々の生活にあふれる映像のなかでも、特にYouTubeなどのインターネット動画サイトは2000年代に登場したばかりなのに、映像文化の中心となっています。たとえば、YouTubeには1分間に300時間分の動画がアップされていて(YouTube統計情報)、NHKの年間放送時間は約8728時間(NHK平成26年度業務報告書)を、たった30分足らずで越していることになります。また人生80年とすると、一生に与えられた7,008,000時間も、2週間あまりで越されることになります。映像は怒濤のごとく生み出され、流出し、私たちの時間に浸入してきます。私たちは、まさに映像の洪水のなかを生きているのです。

この映像の洪水のなかで溺れることなく、治水し、うまく活用していく方法はないでしょうか。さらには、新たな流れをつくることはできるでしょうか。そういったときは「自分はどうだろう」と考えることが出発点になります。みなさんは、カメラで写真を撮ったことがあるはずです。写真は映像文化を考える基礎になります。なぜなら、世の中にあふれるさまざまな映像も、自分がスマホで撮った写真も「カメラ」で撮ったものだからです。実は「カメラ」の原理は、その誕生のときからまったく変わっていません。だからカメラが小型化したり、高画質になったり、携帯電話に付いたり、そのような進化は、私たちの映像に対する「思い」「夢」「欲望」そのものです。それが積み重なってきたのが、いまの映像文化なのです。

2. スマホやデジカメで撮った写真、どうしてる?

まず、現在の若者たちは、どれくらいの頻度でカメラを使い、その写真をどうしているのか知りたくて、本学部生224名(政策情報学部1、2年生 男168人 女56人)にアンケートを行いました。その結果、96%の学生は、スマートフォンやiPhoneで撮影していました。デジタルカメラや一眼レフカメラを使用するのは10%程度です。そのうち、71%がSNS共有すると答えました。また、44%は「バックアップをまったく取らない」と答えました。アンケート結果をまとめると、本学部生には、次のような傾向が見られます。

スマートフォンやiPhoneで週に一回くらい撮影し、その写真はLINEやtwitterなどで共有し、ときどき必要な写真のプリントをして、データのバックアップはとったりとらなかったり(ほぼとらない)という感じです。つまり、写真は頻繁に撮るけど、記念に残すというより、その場で他者と共有することが主な行動であり、数年後に見返すということは考えていないように思います。これは本学部生に限らず、近年のスマートフォンの普及とSNSの発達により、多くの人が、このような行動になりつつあるのではないでしょうか。

写真に関するアンケート

実施日:2015年7月24日・27日、対象:政策情報学部 政策情報学概論Ⅰ履修生(1年)、政策情報学概論Ⅲ履修生(2年)男168名・女56名

3. 写真の歴史 それは光からはじまる

2012年5月20日金環日食

さて、ここで写真の歴史について振り返ってみます。写真の歴史は、1830年頃にフランスのニエプス(1765-1833)とタゲール(1787-1851)によってはじまります。しかし、「カメラ」の歴史はもっと古くからありました。2012年5月20日の金環日食のとき、木漏れ日のかたちでも日食の観測できたことを覚えていますか。そのように小さな穴(ピンホール)を通った光は、壁にあたって逆さの像を映し出すという現象があります。
この光学現象は、古くから発見されていて、紀元前300年以上のアリストテレス『問題集』や『墨子』のなかでも記述されています。それが「カメラ・オブスクラ」という道具として登場したのは14世紀ころで、天文学者が日食の観測をするため利用しました。「カメラ(camera)」とは「暗い箱」という意味です。そして16世紀ころ、芸術家たちが絵画の補助器具として利用しはじめます。タゲールも「カメラ・オブスクラ」を使って舞台の風景画を描いていました。「自分で描かなくても、映っている像をそのまま定着できないか」と思ったのは人間の心情として理解できます。つまり、レンズを通して箱のなかに得た光学像を感光材(フィルム)に化学的に定着させる、それが写真なのです。それから焼き増しができたり、カラーになったり、高画質になったりと、写真への「欲望」が科学と産業の発展とともに実現されていくのです。

4. 写真とは何か、という問い

多くの人がカメラを持ち、世界中の遺跡や都市の風景、戦場、歴史的瞬間、さまざまな人々の肖像などの写真が撮られ、社会に影響を与え、文化芸術としても扱われるようになると、「写真とは何か」と論じられるようになりました。そのように写真の本質を論じた代表的な人物のひとりに、アメリカの批評家、スーザン・ソンタグ(1933-2004)がいます。ソンタグは、1977年『写真論』を刊行しました。その本のなかで次のように述べています。

家族や他の集団の一員と考えられる個人の業績を記念することが、写真の最初の一般的な利用の仕方である。(略)どこの家でも肖像写真による年代記ー一家をめぐっての証言となる一冊の写真帖がつくられる(『写真論』p.15)

確かに、私たちは人生の節目(誕生、入学、卒業、結婚など)に必ずといっていいほど写真を撮ります。写真を撮るという儀式を通して、家族である証明や絆、アイデンティティーを築いてるのです。続いて次のようにも述べています。

写真はその旅行がおこなわれ、予定どおりに運び、楽しかったことの文句のない証拠になる。(略) 写真撮影は、経験の証明の道ではあるが、また経験を拒否する道でもある。写真になるものを探して経験を狭めたり、経験を映像や記念品に置き換えてしまうからである。(略) 観光客は自分と、自分が出会う珍しいものの間にカメラを置かざるを得ないような気持ちになるものだ。どう反応してよいかわからず、彼らは写真を撮る。おかげで経験に恰好がつく。(同p16)

旅行で重要なのは、その場所の風と光、におい、音、人々との交流など、さまざまなものを体感したり学んだりすることです。しかし、今や、ランドマークで記念写真を撮り、SNSにアップし「いいね!」をしてもらう、それが目的になっていないでしょうか。

ソンタグの指摘の正しさは、本学部生のアンケート結果からもうかがえます。 私たちにとって重要なのは、写真そのものより、撮る行為そのもの、それで築かれる関係性なのです。だからこそ、撮る行為そのものが、何か大切な経験と置き換わっていないか、本当にするべき反応について考えることなく、とってつけた恰好になっていないか、そのことを問う必要があります。その問いが表現となっていくからです。

5. 光は時を超えて

映像とは、そもそも光を捉え定着していくことでした。そこで、たとえば、『睡蓮』などの絵画で知られる印象派の巨匠、クロード・モネ(1840-1926)について考えてみましょう。「なぜここで画家を?」と思うかもしれません。しかし、モネのことを考えるとこれからの映像文化についてのヒントがあると思うのです。

印象派登場の背景には、チューブ式の絵の具が発明され、これまで屋内(アトリエ)でしか描けなかった画家たちが、屋外で描けるようになったという技術革新があります。これは写真が発明されてから多くの人がカメラを持ち、世界を旅したことと似ています。モネは移りゆく光を、絵の具を混ぜ、色をつくり、何枚ものキャンバスにのせ、定着させていきました。モネは美しい光に出会った感動に対し、描くという反応をしたのです。モネが捉えた光は時空を超え、いまもって多くの人びとに鮮烈な感動を与えているのです。

私たちは、モネが絵を描くよりも、手軽に短時間で、しかも大量に高画質の映像として記録ことができます。しかし、それはモネの絵のように、100年の時を超えることができるでしょうか。そう考えると映像はメディアとして脆弱なものだとわかります。時空を超えて人びとに感動を与える光の表現とは何でしょうか。映像文化にとって忘れてはならないのは、この問いだと思います。

自分はなぜカメラで撮っているのか、何のためか、何を伝えたいのか……そんなところから映像文化について振り返ってみると、映像にあふれる現代の生き方が見つかるかもしれません。

【参考文献】

  • 平木 収 2002 『映像文化論』武蔵野美術大学出版局
  • ジョン・H・ハモンド 川島昭夫訳 2000 『カメラ・オブスクラ年代記』朝日新聞社
  • ジョセフ・ニーダム 橋本万平ほか訳 1977 『中国の科学と文明 第7巻 物理学』思索社
  • アリストテレス 丸橋裕ほか訳 2014 『アリストテレス全集13 問題集』岩波書店
  • スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 1979 『写真論』晶文社
  • 吉川節子 2010 『印象派の誕生』中央公論社
  • YouTube統計情報(閲覧日2015.9.8)
  • NHK平成26年度業務報告(閲覧日2015.9.8)

解説者紹介

杉田 このみ