教員コラム

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国際

確かに、難民認定のハードルは高く受入数も少ないため、その点では閉鎖的だといえますね。しかし、日本人が何時でも閉鎖的かといわれると、必ずしもそうだとは言い切れません。江戸時代に鎖国していたというイメージが強く、また、「島国根性」(他国と交流の少ない島国に住む国民にありがちな、視野が狭く閉鎖的な考え方)という言葉があったりするので、そうした考え方が根強く広まっているともいえます。しかし、鎖国以前を考えると、東南アジア各地に日本人町があったことは知られていますし、古代から大陸との交流は続いていることも考えると、鎖国体制の方がかなり特殊な状況といえます。また、明治時代以降になると、日本人はハワイ、北米、中南米、東南アジアなど世界各地に移民を送出していました。私が研究していた南太平洋地域においても例外ではなく、英領フィジー諸島(現フィジー諸島共和国)や仏領ポリネシアのツアモツ諸島のマカテア島、仏領ニューカレドニア、オーストラリア領木曜島などに移民したほか、ニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ共和国)などに再移民した者もいました。そういう意味では、決して閉鎖的ではなく、むしろ積極的に海外へ雄飛しようとしていたといえます。

日本人移民送出の背景と各地の様子

こうした日本人移民送出の背景には、1880年代初頭の経済状況が大きく影響しています。そもそも明治政府は地租収入以外の財政基盤が弱く、急速な近代化を達成するため大量の不換紙幣と国債を発行したため、インフレ状態にありました。それに対し、1881年大蔵卿の松方正義は急激なデフレ政策をとったため、大量の地租滞納者を生み出し、貧農の多くは離農せざるをえませんでした。移民はそうした経済的困窮者の受け皿でした。このことは、1885年の第1回ハワイ官約移民の募集600名に対して、28,000余名の応募があったことでも裏付けられます。又、徴兵忌避のための移民者も少なからずいました。1890年代に入ると、すでに移民の実績があったハワイ・アメリカだけでなく、カナダ・メキシコ・ペルーとならんで、南太平洋地域への移民も開始されました。こうして本格的な移民の機運が高まると同時に、移民の斡旋も条約・協約等の正式な外交文書に基づく官約移民から、移民会社の仲介による雇用契約に基づく私約移民へと移行していきました。

南太平洋地域では島ごとに移民の成功、不成功が別れます。以下、順番に各地の様子を見ていきましょう。英領フィジー諸島には、1894(明治27)年に日本吉佐移民会社がサトウキビプランテーションの労働者として305人を送出しました。しかし、赤痢や熱病の罹患、労働条件の厳しさなどにより9割近くの270人が病に倒れてしまいました。これを受けて翌年に明治政府は全員の引き揚げを命じます。しかし、帰国途中の船内でも25人、神戸上陸後に5人の死者を出し、合計で106人が死亡し、移民は失敗に終わりました。

仏領ポリネシアのツアモツ諸島のマカテア島への移民は1910(明治43)年に始まります。大洋州仏国燐鉱会社(Company Française Phosphate de Oceanie)から移民募集事務を請け負った東洋移民合資会社が熟練労働者100名を送出し、それ以後1933(昭和8)年までに断続的に544名が移民しました。マカテア島では普通労働者が燐鉱採掘を行い、そのほかに大工・鍛冶工や機関車運転手のような熟練労働者がいました。1911(明治44)年には351名の日本人が在留していましたが、日本人渡航者が途絶してからは減少し、1939(昭和14)年には13名となっていました。マカテア移民を研究した吉田恵子はマカテア移民が不振だった理由として、第一次世界大戦の影響とフランの下落という世界的な政治経済状況をあげていて、それでも燐鉱採掘の基盤づくりとインフラ整備に大きく貢献したことを指摘しています。

ニューヘブリディーズ諸島には、後述するニューカレドニア移民が契約満了後、同島においてコーヒー、ココア、綿花などを栽培していたフランス農事企業会社の契約労働者として再移民した日本人移民60余名がいました。その後、帰国や死亡により1938(昭和14)年には28名となって、船舶建造、自動車修理、家具製造、大工、仕立屋、理髪、農業、漁業、雑貨商など各種の職業に就いていましたが、第二次世界大戦開戦と共に財産は接収され、強制収容されてしまいました。

オーストラリア領木曜島では1883(明治16)年にイギリスのジョン・ミラーの手引きで真珠貝、高瀬貝、ナマコなどの採集のため37人が移民しています。このように日本から直接移民した者ばかりではなく、1911年刊行の釣田時之助『南洋の富』にあるようにシンガポールなどから再移民した者もいたと考えられます。1897(明治30)年末現在の「木曜島及其付近」の在留邦人数は1044名にのぼっています。その後、1920年代まで真珠貝採集は好調でしたが、1931年の世界恐慌以後急速に衰退し、第二次世界大戦開戦と共に日本人移民は強制収容されました。

仏領ニューカレドニアへの日本人移民は、1892(明治25)年、日本吉佐移民会社による日本最初の私約移民に始まり、600名がニッケル採掘のために渡航しました。その後、二度の中断があったものの、結果的に1919(大正8)年までの間に合計5575名が渡航し、南太平洋地域で有数の移民先となりました。大半は移民契約期間の終了とともに帰国しますが、一部はニューカレドニアに定着していきました。

海外に順応する日本人移民と彼らのアイデンティティー

さて、ニューカレドニア移民史を紹介した小林忠雄の『ニューカレドニア島の日本人』という本の片隅に、一枚の墓碑の写真を見つけた私は、2ヶ月後にはその墓を見るために現地に向かっていました。何の変哲も無い墓にそれほどまでに引かれたのは、その墓の碑文に「釋日本人之墓」と書かれていたためです。「釋○○」というのは浄土真宗の法名(戒名)です。ニューカレドニア日本人移民の出身地を調べてみると、ハワイやアメリカなど他の多くの移民先の場合と同様、浄土真宗が盛んな中九州(特に熊本県)や山陽地方(特に広島県)が多いといえます。「釋日本人」という表記に、戒名を付けたくても僧侶がいないため付けられない移民たちの事情が看て取れると同時に、それでも浄土真宗に由来する「釋」の字を織り込んでいたことに引きつけられたのです。この他にも、ニューカレドニア移民は、見様見真似で日本の墓標とはどことなく異なるユニークな形のコンクリート製墓標を数多く自作していました。

ニューカレドニア移民の調査をすすめていく中でより驚かされたのは、ニューカレドニア公文書館に保管されていた第二次世界大戦中の移民の財産接収記録を見つけた時でした。接収された移民たちの所持品にはソーセージ製造機や天蓋付きのベッド、ピアノなど当時の日本と比べてかなり西洋化した品々にあふれている一方で、剣玉や、日本の歌が入ったレコード盤、日本国旗、仏像など日本文化を意識したものも散見されました。とりわけ、移民の多くがナプキンやテーブルクロスなど家庭用のリネン類を大量に保有していました。当時の日本では、ちゃぶ台か箱膳が一般的であったことを考え合わせると特徴的だといえます。ダイニングテーブルが普及した現在の日本でさえ、テーブルクロスはあまり用いられていませんし、食事の都度洗い替えしている家となると極めて少ないといえるでしょう。ナプキンやテーブルクロスを大量に保有しているということは、日本人移民たちが西洋式のマナーをわきまえ、洗い替えの分も含んでリネン類を保持しているという西洋的な暮らしぶりをしていたことになります。それほどまでに現地に適応していたニューカレドニア移民でしたが、先ほど述べたように、墓は敢えて日本的なものを志向しています。海外に行って、生活様式は現地に適応していっても、日本人としてのアイデンティティーは失っていなかったともいえます。だから、日本人移民を見る限り、日本人は閉鎖的だと一方的に決め付けることは出来ないようです。

解説者紹介

森 久人