教員コラム

政治・経済・IT・国際・環境などさまざまなジャンルの中から、社会の話題や関心の高いトピックについて教員たちがわかりやすく解説します。

環境

捕鯨の様子

1987年以降、日本は南極海での調査捕鯨を毎年実施してきました。2005年、オーストラリアがこの調査を国際司法裁判所(ICJ)に提訴し、その判決が今年3月末に出ました。その判決は「南極海調査捕鯨の撤回するよう、またさらなる許可を与えないよう」に日本に命じる厳しいものでした。これを受けての各メディアの報道は、まるで鯨を食べる行為そのものが裁判により否定されたような打ちのめされた感と、それに対する反感が滲み出ていたように感じられました。
しかしながら、判決をまるく言い換えると「(南極海の)調査捕鯨は科学性が足りないよー、こんなに鯨をたくさん捕らなくてもいいでしょ、もっとしっかり考えておくれー」と言われているだけのことです。これに対して、調査計画を精査し科学性を高めた新計画を立案し、実施すればいいのです。このニュースに関して、日本人の多くが気にしている、鯨を食べるという行為自体に対してはなんら影響がありません。
日本政府は、この判決を受け入れるとしていますが、水産庁のWebサイトに示されている考えは、判決を踏襲したものではありません。以下では、公表されているIWC科学委員会メンバーのコメントなどをもとに、ひとつの解釈を示すとともに、捕鯨がどのような形で落ちくべきか、私なりの意見を示していきたいと思います。

Q: 調査捕鯨の科学性が疑われた?

水産庁Webサイト「鯨問題に関するよくある質問と答え」(以下、水産庁サイト)では、調査捕鯨の科学性を説明する文章として、次のように記しています。「調査捕鯨では、1頭1頭のクジラから、それぞれ100項目以上の科学データが収集されています。その分析結果は、毎年国際捕鯨委員会(IWC)科学委員会に報告されており、高い評価を得ています。」
“高い評価”とはどの程度のものでしょうか?調査捕鯨で得られた科学データは、ほかでは得られないものですから、確かに貴重なデータです。しかし、データを得る手法そのものの是非は、科学委員会が関与する問題ではないため、表立っては議論が見えてきません。それでも、科学委員会委員のScott Bakerは、「日本の調査捕鯨は、薄っぺらなベールに包んだ商業捕鯨にすぎないとする議論が20年に渡って科学委員会続いてきた」と述べています。科学委員会も決して一枚岩で日本の調査捕鯨を支持してきたわけではないことが分かります。

Q: 毎年850頭ものミンククジラを捕獲調査する必要があるのか?

水産庁サイトでは、捕獲数の意義を以下のように説明しています。「天然生物資源の動向を把握するための科学データには、統計学的に一定以上の“確かさ”が必要です。この“確かさ”がなければ、どんな調査も意味のないものになってしまいます。何十万頭もいるクジラに関する科学データについて、必要最低限の“確かさ”を得るためには一定の数のサンプル(標本)が必要となります」
煙に巻いたような文章です。“確かさ”を言うなら、サンプル数(捕獲頭数)が8頭と85頭と850頭の場合の“確かさ”の違いを示すべきです。85頭に比べて850頭をサンプル数にすることが“より確か”になるのはちがいありません。でも、その差がどれだけなのかはこの文章からはわかりません。
捕獲調査に関する日本の主張は、国際捕鯨取締条約第8条第1項の規定にある「科学的研究のための特別許可」=調査捕鯨に基づきます。しかしながら、この条約制定にかかわった当局者たちは、特別許可では数百頭もの捕獲調査を想定していないとしています。加えて、ICJ裁判における日本側証人(Lars Walløe)さえ、「捕獲頭数の算出根拠が不透明であること」に同意する証言をしています。

Q: そもそも、致死(捕殺)調査は必要か?

私は、ほとんど必要ないと考えていますが、水産庁サイトでは、致死調査の必要性を以下のように記しています。「資源管理のために必要な年齢についての正確なデータは、現在のところ、内耳に蓄積する耳あかの固まり(耳垢栓)や歯がなければ、得ることができません。また、クジラがいつ、どこで、何をどれくらい食べるかを知る(筆者注:摂餌生態)ためには、胃の内容物を見るしか方法がありません。」
水産庁はこの主張を、30年近く続けています。しかし、科学は日進月歩。新しい調査技術を取り入れて、科学性と捕殺数をバランスすることは重要です。まず、年齢推定。ヒゲクジラでは耳垢栓を調べることでほぼ正確な年齢が分かります。しかし、“正確な”年齢は真に必要なのでしょうか。
DNAの分析でザトウクジラの年齢推定を試みている研究しているチームのPeter Harrisonは「死んでしまったクジラの正確な年齢を知るよりも、生きているクジラのおおよその年齢を知るほうが大事」だと言っています。共感できる言葉ではないでしょうか。
2014年4月、ひとつの研究報告がありました。ザトウクジラの皮膚サンプルを用いて、DNAのメチル化の程度を調べることで、3歳程度の誤差で年齢推定が可能だというものです。是非、分析の精度を高め、実用につなげてほしいものです。
そもそも、もし、絶滅に瀕した種の調査であれば、年齢推定のために“殺す”ということは本末転倒です。ラフでも、年齢推定の方法、エサを調べる方法を必死に編み出す努力をするはずです。
また、摂餌生態を知るには、食べた結果である胃内容物の調査に変えて、何を食べているのか見る方法が挙げられます。どうやって見るのか?クジラにビデオカメラを取り付けるのです。Goproという小型のカメラをあちこちに取り付けて撮影した動画がYouTubeなどで流行っていますが、生態学・行動学の分野ではバイオロギングと言って、動物にさまざまな記録計を取り付けてデータを取る手法が30年以上も実績を積み上げています。これまでに、アザラシなどの体に取りつけたビデオカメラで、エサを取る様子が記録されています。カメラの取り付け、回収の手法などの開発が必要ですが、クジラの摂餌生態を解明するにも役立つ手法となるはずです。

Q: 判決がおよぼす調査捕鯨全体への影響は?

調査捕鯨には、今回の提訴された南極海で実施するもの(ミナミ)に加えて、北西太平洋の調査捕鯨(キタ)があります。キタの調査は、沿岸調査と沖合調査のふたつに分けられます。
まず、沿岸調査では、ツチクジラなどを捕獲している小型捕鯨業の捕鯨船が、日本沿岸域鯨類調査事業として、ミンククジラを約100頭(昨年の捕獲予定枠比約20頭減)とることになっています。
沖合調査では、ミンククジラが0頭(同100頭減)、マッコウクジラが0頭(同10頭減)に対して、ニタリクジラ25頭(同25頭減)、イワシクジラ90頭(同10頭減)を計画しています。
双方合わせて約215頭、これまでの計画の380頭からは、捕獲頭数を大きく減らしています。このこと自体は、一面では評価されると思います。
しかし、この計画修正も科学的根拠が不明確です。なぜ、ミンククジラ100頭の捕獲枠を沿岸50、沖合50と分けずに沿岸だけとしたのか。なぜ、イワシクジラはわずか10頭減だけなのか。理にかなった説明が必要になります。
ICJにより南極海調査捕鯨の中止決定がなされた理由の一つに、調査捕鯨で、捕殺を行うことの妥当性が挙げられています。今回、キタの計画修正を日本は自発的に実施しました。この修正の妥当性を国際社会に対して、うまく説明できなければ、かえって批判を浴びることになります。もっとはっきり言うと、修正されたキタの調査の評価次第で、ミナミの“再開”へのハードルが高くなります。

Q: 文化的背景の違いの対立をどう考える?

捕鯨の様子

もし、日本の鯨文化が、食べるための捕鯨ではなく、たとえば、興味本位のハンティングのように、命をムダに浪費している、あるいは、絶滅に瀕している種を捕獲しているというのなら、率直に考え直さなければなりません。しかし、そうではありません。
いっぽうで、遅くとも中世以来の伝統的なクジラ文化と、戦後生じた栄養源としてのクジラ——そのために南極海まで行っていたわけです——は分けて考えなければなりません。栄養源としてのクジラの位置は、もう無いはずです。守るべきは、地域の伝統文化です。鯨を食べたい人がいて、食べたいものを提供する仕組みは、尊重しなければなりません。文化的背景にどれだけの違いがあっても食文化に文句をつけてはいけないのです。もし、食べたい人がいなくなれば、追々、提供する仕組みも機能しなくなり、いくら文化だと騒いでも、それは自ずと廃れ行くでしょう。
頑なに守るばかりが文化ではありません。また、日常だけが文化でもありません。たとえば、おせち料理。年に一回のものですが、これを日本の文化として否定する声は無いと思います。あるいは、着物を何年も着たことの無い人も多いと思いますが、それでも着物は日本の文化です。

Q: 日本としては、今後どんな対応をしていく必要があるのか?

捕鯨問題は、非常に複雑な要素で成り立っていますが、今回の判決を受けて考えなければならないのは、日本の科学と文化です。
まず、科学の面で云うと、裁判の結果は、日本の科学調査に対する信頼性に対して、レッドカードを出されたようなものです。ですから、短期的には、日本が行う調査の科学性に関して、信頼を取り戻す努力が必要になります。これは、単に捕鯨の問題でなく、日本に対する信頼の問題ですから、全力で信頼回復に努めなければなりません。
次に、文化の面ですが、これに関して、判決がどうこう言ったわけではありません。これは繰り返しになりますが、「地域の伝統文化」として守っていくことが重要になります。しっかりとした、資源管理をした上で、沿岸捕鯨、そしてイルカ漁を続けていくべきです。
そのための土台となる資源管理、これが今後の柱になります。ミンククジラに関しては、日本は長らく「持続的利用」を謳ってきました。裁判によりこれまで同様の調査捕鯨は否定されましたが、「持続的利用」の考え方は間違っていないと私は考えます(でも、現状、南極海での捕鯨が必要とは思いません)。ただし、持続的利用には、正確な資源量と再生産率の把握が必要になります。日本沿岸でも是非、真の持続的利用を達成してほしいと考えます。

Q: 捕鯨、鯨食はどうなるのか?

捕鯨の様子

中期的には、捕鯨は縮小していくと思います、一方で長期的には、世界的な人口増に食糧生産が追い付かない場合には、クジラも再び食料として注目を浴びる可能性もあります。しかし、捕鯨問題はそれ自体が、非常に複雑な要素で成り立っています。つまり、クジラが増えれば、また捕れるという、単純な資源管理だけの判断ができず、そこには、幅広い議論が加わります。たとえば、生態や環境と言ったクジラ側の問題、そこに、人間側の都合で、文化や歴史、さらに政治・外交が絡んでくる。政治はロビー活動で大きく左右される。すなわち、宗教や経済、こういったパワーバランスも影響してくる。さらに、動物の権利も高まっている。おまけに、“かわいそう”という感情論まで出てくる。だから、クジラが増えただけでは、容易に“南極海”での捕鯨は再開できないのです。
いっぽう、文化的側面の強い日本で、日本沿岸で行う捕鯨は位置づけが異なります。沿岸捕鯨は、日本人の立場で考えた場合には、地産地消が可能です。日本の近海でとって、日本で食べる。この筋を通します。
例を挙げるとすれば、ウナギが近いでしょうか。輸入物もありますが、国産品に価値があり、いつでもどこでも食べられるというモノではなく、食べたい時に、専門店や、特産地へでかける。ウナギなら、たとえば浜松食べに行く。そんな感じで、ツチクジラを食べたくなったら和田や石巻へ、ゴンドウなら太地、ミンククジラなら釧路など、鯨食の多様性を生かしつつ、地域の独自性も保てる。こんな形が、これからも長く文化として根付いていくにはいいのかなと思います。

【参考】

【引用文献】

  • クジラに「やさしい」年齢の数え方
    Carina Dennis, 2006. Nuture Dugest日本語編集版, Vol.3, p16-18.
  • Court Slams Japan’s Scientific Whaling
    Virginia Morell, 2014. Science, Vol.344, p22.
  • “Epigenetic estimation of age in humpback whales”
    Polanowski AM, Robbins J, Chandler D, and Jarman SN (2014). Molecular Ecology Resources. doi: 10.1111/1755-0998.12247.

解説者紹介

関口 雄祐